肉体、こころ、魂と久高島の様々なスピリットがシンクロする。
そして、その度に自分に気づかせられ、新たな
「聖なる旅」
まさにその言葉に尽きた。
久高島3日目。
盛りだくさんな1日。
あの世とこの世を右往左往したあとは、フボー御嶽を参り、その後は周辺の森を徘徊。
足の痛みに耐えかねて、一旦宿に戻ることにした。
人間界へ帰ってみると、肉体が疲れていることに改めて気づく。
少々足が痛くても、自然の中にいるとそれなりに動けてしまっていたのが、宿に着いた途端に全身に疲れを感じた。
上へ引っ張るエネルギーと傷のある肉体のエネルギーがアンバランス。
高次のエネルギーを受けとるには、健康体であることが大事。 改めてそう思わされた。
しかし、島は都会とは周波数がまったく違う。だからなのか、急速に疲れも抜けていくのが分かる。
そして空腹であることに気づく。
港近くにある数少ない食堂に行こうか、簡単にパンで済ませようか考えている間に激しい雨が降りだした。
森にいた時にこの雨に降られたら大変だっただろうなと想像してみた。
濡れずに帰ってこれたこと、スピリットガイドに感謝!
雨の音は好きだ。午前中の若干のストレスが体から抜けていくようだ。
そして、浄化。エネルギーバランスの悪さが整えられていく。
雨の音を聞きながら、しばし瞑想タイム。こころと体からどんどん力が抜けていく。
雨はまもなく止んだ。南国特有のにわか雨だったのか。
時計を見ればまだ13時ごろ。
気分も良くなってランチがパンだけというのもつまらない感じがして、数少ない島の食堂に出かけることにした。
沖縄っぽいものを食べたいと思い、この日は沖縄そばに天ぷら。もずくの天ぷらが美味だった~。
お腹も膨れたところで、島に来てから日課になっているぼーっとするために浜へ向かった。
わたしのぼーっとは、目を開けたままの瞑想、変性意識となって異次元異界への旅行。
大胆に潮が干いている海を眺めながら、感覚だけで過ごす時間。
波・風の音、匂い、目の前の景色、自然エネルギーに包まれる。
不思議と感情は動かない。
その場にいることが、当たり前のように思えていた。それも過去生の影響なのか。
そんな風なひとり時間。30分ほど経った頃には、雨上がりの海風が冷たくなってきた。
そして、観光客、地元のひとが入れ替わり、立ち代わりに現れた。
おじさんとおばぁがわたしの横で海を眺めながらしきりに話をしている。
現地語は理解不能。違う国の言葉かと思った。
そのやりとりをちら見したとき、これからこのおばぁと話すことになるな~という予感がした。
おそらくこのおばぁは神女なのだろうと、発するエネルギーが語っていた。
そして間もなく、おばぁが他愛のないことからわたしに話かけてきた。
最初はおばぁの仕事のこと、久高島のこと、わたしのこと、話はどんどん広がっていく。
始まりは日常的なことだったが、気がつけば合間合間に神様についての話があった。
はたまたガイドがおばぁに語らせたのか?
神様ごと。信心はひとそれぞれのものだから、こちらから根掘り葉ほり聴くことはしなかった。
今回の久高島への旅の目的はなかった。
自分を見つめたいとか、内省したい、瞑想したいとかの思いや計画もない。
どうして行きたいと思ったのか? 他の神旅のように呼ばれた気もしなかったし、ただ頭の中から久高島が離れなかったので、行こうと思った。
久高島へやって来て3日目にようやく人間的な理由が見つかった。
この島の空気に触れて、風に吹かれて、ぼーっとした時間を過ごしたいと思った。
だが、後から思ったのは、魂のシンクロ・・・だったのかもしれない。
さて、おばぁとの話はあれこれ続く。合間に久高島の成り立ちや神様の話、現在のこと。
そもそも久高島は、祖神アマミキヨが降り立った時から「久高島」だった。
しかし、現在の正式な住所名はそうではないらしい。
「正式」
これはどこから目線で言えばいいだろうか?
人間界からいうなら、法律、国、県政、市政が決めたこと。
神界、霊界からいうなら、宇宙の法則、ブループリント、アカシックレコード。
これは久高島だけのことではなく、日本全国、いやいや世界各国、各地で起こっていることだと思う。
そもそも神が創りしこの世界、人間の欲が優先されて、土地の名前や地形は変えられた。
名前、言の葉には大きな意味がある。言葉は数で表され、その数には霊が宿っている。
だから数霊とも言われる。
数霊は大宇宙とつながるための、プログラム言語であり、ソースコードのように思う。
それを変えると、大宇宙とのつながりが途絶え、エネルギーが届かず、その土地の磁力は弱まる。
土地だけではなく、人間も含めてそこにある生物すべてに影響する。
また東日本大震災であるように、土地の名前をその昔変えてしまったために、津波がやってくる場所を後世の人間に伝わらなかったということもある。
さらには土地開発は、山を切り崩し、川をせき止め、流れを変え、海を埋め立て、天地のエネルギーがつながる場所を塞いだ。自然を不自然へと変え、地球と宇宙とつながりが弱くなった。
さて、その結果がどうだろう?
いや、結果はまだ出ていない。まだ途上なのかもしれない。
幾度となく、同じようなことを記事にも書いてきた。
人間を主役に据えるなら、暮らしが便利になるよう、雇用を産むように、開発するのはいいことなのかもしれない。
だが、自然界を始めとした異界はどうだろうか?
物言えぬから、形を変えても、自然を不自然にしてもいいのだろうか?
「そもそも」「土地」には「謂れ」がある。
それは自然界や鉱物界の人間には分からない掟であり、ルール。大宇宙の法則。
それを人間都合で大きく書き換えていいものだろうか?
そもそも「神が」創りしこの「大地」。
様々な世界の共存共栄が望まれた世界。
果たして今、そうなっているのだろうか?
海風が寒くてお互い体を震わせながら話し込んだ午後のひととき。1時間ほどだったろうか。
おばぁの口から語られる内容は、ある意味神おろしであり、大宇宙からの強いメッセージとして受け取った。
心身魂すべにおいてお腹いっぱいのその夜のこと。
部屋にテレビはない。毎夜早々に夕飯とシャワーを済ませ、静かに過ごすのが日課になっていた。
この日は昼間の様々な出来事が積もりに積もって、まだ消化できず、落ち着かない夜になった。。
強烈に第7チャクラが痛い、重苦しい、うえから強烈な力で押し付けられるような感覚があった。
高次からのエネルギーがどんちゃんやってきているのが分かる。
肉体はこの世界にありながら、意識はあらゆる世界を行き来しているため、エネルギーバランスが整うのにタイムラグがあった。肉体は疲れているのに、高次のエネルギーが大きすぎて、受け止めきれていない感じがその夜は続いた。
肉体と霊体が不一致をおこし、気持ちが不安定になっていた。
今度は思考と感情のバランスに気をつけながら、肉体を意識する。
「いま、ここ」をずーっと、ずーっと意識し続ける。
そうじゃないと、途端に違う世界へ行ってしまいそうで、それが自分でも少し怖かった。
久高島はスピリットが身近、異界も身近、高次のエネルギーの降り方も普段とは違う。
自然界のスピリットがグイグイくるの。
ネット情報などをみると、島から石をもって行ったひとが怖い目にあったとか、うつ病になったなどとあった。
ガイドさんもその話はされていたので、少ないにしろそういう現象は起きたことは間違いないのだろう。
実際に浜に行って、そこに転がっている石を見ていると、強烈に持ち帰りたい衝動にかられる。
スピリットが強い、主張してくる。その誘惑にかられ、まるで魔法にかかったように手を出したくなる。
ダメだと言われたら余計したくなる。人間の弱いところを試しているのだろうか?
わたしも気がついたら石ころがバックに入ってました!なんてことにならないように注意をはらっていた。
どうしてこんなにスピリットのエネルギーが強く働きかけてくるのだろうか?
もちろん受けとり手によっても感じ方に違いはあるだろう。
そういえば、ガイドさんに案内されたときに「天と地がつながる場所」を通ったことを思い出した。
車の中からの観光で、ガイドさんもさらっとの説明だったので、それまで意識に上がってきていたなかった。
「そうだ、明日行ってみよう!」
そして、4日目。
宿から出て左へ向かい、また左に折れれば、「あの世」と「この世」の境目にくる。
この日は「あの世」へは向かわず、一本違う道に入り、「天と地がつながる場所」へやってきた。
そこは普通、地味、「えっ!ここ?」と思うような場所だった。
だが、このさざれ石の塊のようなところ天と地がつながっているという。
でも、案外そうなんだろう。
「天と地がつながる」とは、ひとが思うほど劇的でもセンセーショナルでも、ゴージャスでも、派手でもない。
人間に置き換えてみてもそう思う。
なぜなら、ひとが大勢集まると氣が乱れる、氣が汚れる、氣枯れする。エネルギーが弱まり、波動が下がる。
だから天界、大宇宙とつながる場所はひとを寄せつけない、隠され、地味でひっそりとしている。
各地の神社を回ってみて気づいた。山奥の「えっ!?こんなところにひとが来るの?」という場所にあるひっそり小さく、誰からも忘れ去られたような場所がエネルギーが強いことに。
それぞれの神社によってこの世界においての役割が違う。
ひとを優しく見守り、導く神社もあれば、天と地をつなぐことが役割の神社もある。
同じことは人間にもいえる。
天界、大宇宙からの純度の高いエネルギーを媒介するには、導管となる肉体やエネルギー体に汚れや詰まりがあってはできない。
しかし、大勢のひとの中で長い時間で過ごすことは、氣の乱れ、汚れ、氣枯れとなりやすい。
そうならない生き方が魂の本質的役割であり、使命でもある。
天と地をつなぐとは、「ありのまま」「自然」であること。そもそも神が創りしときの形、エネルギーであること。
人間も同じように、「ありのまま」「自然」「素直」「自分のエネルギーだけ」で生きること。
派手なことでも、大それたことでもない。しかし人間にとってはそれが難しい。
心身のいかなるドロドロを無くす、エゴを無くし、カルマを返し、自分さえも手放す。
そうなれば大宇宙が保管している「わたしの魂」のソースコードにつながる。
目の前のこのなんでもない地味な場所が、「天と地をつなぐ」ことの意味を教えてくれる。
ただただそこにある。
久高島 最終日。
朝9時のフェリーか、11時のフェリーか悩むところだったが、9時のにしようと思った。
今回の旅は久高島以外に寄り道もしていないので、空港でお土産でも物色しようと思った
本当の理由は、これ以上滞在時間を延ばすと、帰れなくなってしまうような一抹の不安が奥の方にくすぶっていた。
また来るにしても、今日はとりあえず早めに帰ろう!そう思った。
この日も5時台に起き、フボー御嶽への最後のお参りをした。
宿からフボー御嶽までの途中、これもまた必然の縁だったのだろうなと思ったが、ガイドさんが朝の農作業から車で戻るのに出会った。
挨拶とお礼を言って、お別れした。
そしてフボー御嶽。さすがの朝6時台。人影はまったく無し。
思う存分、その場の空気、エネルギーを味わう。
そこを守るスピリットから様々なメッセージが届く。
最初に訪れたときと同じように、ワクワクして笑いたいような気持ちになった。
そうかと思えば、自然と体が動き出し、まるで奉納のダンスのようになる。
どこかの過去生で、この島なのか、それとも違う文明だったのか、神を降ろすために、巫女だったわたし、シャーマンだったわたしは祈り、歌い、踊ったのだろう。
魂が覚えているのか、時空を超えて身体が覚えていたのか。
ハートのチャクラは開き、強くうったえかけてくる。
祈りもようやくひと段落。
そろそろこの場を離れる潮時と思い、狭い入り口を後にした。
その時、ふと口をついてでたのは、「行ってきます!」だった。