腹を決めて、久高殿を通り抜け、イラブー小屋も通り抜けたところには、いくつもの民家があった。人間界へ戻ってこれたかと、これまでの緊張から解放され、身体の力が少し抜けるのを感じた。
その頃には、カベール岬を目指そうと思っていた朝の意気込みは、緊張と疲れでしぼんでいた。
ならば、その手前のフボー御嶽に行こうと気持ちを切り替え歩き出した。目の前にはまた複数の分かれ道。
気の向くまま、足の向くままにそのうちのひとつを選んだ。
海側の道を行けば、なんとか辿りつくだろうと安易に考えた。
間も無く民家はなくなり、海ぶどうの加工工場があった。
そういえば島に到着したときに宿泊先まで送ってくれたおじさんが海ぶどうのことを言っていたのを思い出した。
あの時、地図アプリに言われるままに突き進めば、早々に「あの世」を彷徨うことになっていたかもしれない。
守護霊やスピリットガイドは、大概ひとりの人間に対して複数いる。 イケイケゴーゴー、情け容赦ないガイドもいれば、優しいという言葉が当てはまるか分からないが、柔らかいガイドもいる。
それは一霊四魂とリンクしているのかもしれないと、この頃思う。
※一霊四魂
人の霊魂は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂から成り立つ、という、幕末の神道家の本田親徳によって成立した本田霊学の特殊な霊魂観である。
一霊四魂説のもっとも一般的な解釈は、神や人には荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま、さちみたま)・奇魂(くしみたま)の四つの魂があり、それら四魂を直霊(なおひ)という一つの霊がコントロールしているというものである[。和魂は調和、荒魂は活動、奇魂は霊感、幸魂は幸福を担うとされる。(ウィキペディアより)
四魂のうちどれが優性、劣性はあるように思うが、ひとはその時々で、場面ごとに発動する魂エネルギーが違うようにも思う。それは魂の本質的役割にプラスして、過去生、今生での生育歴、経験、人間関係を含む引き寄せなども大いに関わっているのではないだろうか。
人生ずっと荒れ狂っているひともいないだろうし、穏やかな中にも怒りがあったり、波乱万丈な中にもひとときの調和がとれた時間があるものだ。
さて、この時のわたしは、荒御魂が優性であったように思う。
※荒御魂
前に進む力である。勇猛に前に進むだけではなく、耐え忍びコツコツとやっていく力でもある。行動力があり、外向的な人は荒魂が強い。(ウィキペディアより)
海ぶどうの工場を右に見ながら道を進む。
この道でいいんだよな~と思う反面、胃のあたりに微かな不安を感じていた。
それでも歩き続けた。
しかし、不安はちょっぴりずつ大きくなっていく。
その場の空気なのかエネルギーなのか、これまで馴染んできたものとの違いを感覚が伝えてくる。
間も無く、不安は形となって現れた。
いく先、視線の先には、お墓!
わたしがこれから向かおうとしている先は、どうやら墓所のようだった。
「あの世・・・か?」
さっきまでの「あの世」と「この世」の行きつ戻りつの葛藤が蘇る。
あの場の課題はなんとかクリアしたと思ったら、今度は本格的な「あの世」への入り口。
さっきまで胃のところで微かに感じていた不安が、今度は大きな丸い風船のように膨れ上がる。
そして頭の中には、飛行機の中で読んだ「日本人の魂の原郷 沖縄久高島(比嘉康雄著)」の内容が浮かぶ。
「人は誕生とともに魂という存在を体内に入れ、これを生きる力としている。魂は単独では浮遊性のある存在で、体内にある時でもその宿る肉体が不調なときは、肉体から抜け落ちてしまうことがあるが、普通は魂を呼び戻す儀式をおこなえばまたもとの肉体に治る。しかし肉体が完全に活動停止すると、つまりひとが死ぬと、魂は肉体を抜け出してしまう。
・・・・
久高島では太陽の出ずる方向は聖なるところにあると考えられている。神々の空間であって、これに対して太陽の没する方向は俗なるところで、死者供養、害虫祓いの儀礼が行われるところであった。太陽は没するとティダガアナという太陽の穴に入り、地球をくぐり抜けて東方に至る。そういう太陽の循環が考えられていて、それにあてはめて、上昇した魂はまっすぐそのまま東方のあの世へいくのではななく、太陽の没する軌道に沿って、つまり地球をくぐり抜けて東方のあの世に行くということから、墓所が太陽の没する方に自然に想定されたのだろう。
・・・・
久高島の死生観は、人間存在のもとになる魂という不滅の霊魂の存在を認識し、これを自然のダイナミズムの中に描く雄大なものである。
・・・・
この魂の認識が久高島の、死生観、他界観、宇宙観、自然観、生命観、人間観、神観念など、すべての思想の核になっている。」(「日本人の魂の原郷 沖縄久高島(比嘉康雄著)」より)
この内容を読んでいるときは、すべてにおいて同意!
だからわたしは久高島へ行こうとしているのか・・・遅ればせながら理解したようなつもりになっていた。
神もガイドもわたしも、事情も、事象も、現象もすべてが丸く収まって、わたしは飛行機に乗っているってわけね!と、思っていた。
だが、あの世への道筋、墓所を前にして、過去生から続く「死」の課題がどーんとやって来たように思った。
頭ではもちろん、墓所が神聖な場所であることはわかっている。
しかし、もう一方では他人の家に無断で入り込んでしまったような気まずさ、居心地の悪さを感じていた。
さらには、時空を超えて過去生からの恐れのエネルギーがわたしを包む。
足が止まった。
胃のあたりに居座る大きな風船に頭の中が反応し、踵を返す。
戻ろう・・・。
そのまま3歩ほど歩いただろうか。 胃のあたりの風船がさらに大きくなったように感じられた。
ん? これは怖さ、恐れだけの風船ではないような気がする。
「帰るな」「進め」「その先へ行け」「行く必要がある」
スピリットガイドからの立て続けのメッセージ。
またしてもわたしを止める。お墓を抜け、その先へ進めという。
「こ、怖いんですけど・・・」
言葉にはならない感情が湧き上がる。それをスピリットガイドに伝えてみたものの。
一方ではその怖さを感じ、向き合う必要があることもわたしは知っている。
「死」のワークを終わらせる。
そして次の扉を開く!
足は止まったまま。
死へと向き合うワークは様々なワークショップで何度もやってきた。
心理、スピリチュアル。様々なアプローチによって今生から過去生まで身体が覚えてしまった恐れを、魂が覚えている恐怖を解放してきた。
ひとにサポートされながら取り組んだワークは、自分の軸と輪郭がしっかりすると、今度は魂の居場所、見えざる世界のエネルギーがサポートし始める。
内なる自分とのワーク。魂のワーク。
そこでは、自分を信じることが試される。
「一歩前へでる勇気」と「自分を信じ続ける」「自分を一番に大切にする」「自分を一番に愛する」
それが試される。
そこでも完璧なひとばらいがされていた。
相変わらず周囲に誰ひとりとしていない。
思えば宿を出てからひとに会っていない。
さて、進んでもいい、進まなくてもいい。それはわたしの選択。
しかし、わたしは自分を知っている。
これまでを振り返ってみても、魂の本質に関わることなら、長続きする。諦めない。繰り返し挑む。強気。
わたしの進む道に障害物があるなら蹴っ飛ばしてでも進んでいく。
反面、どうでもいいことはすぐに諦めるし、忘れるのも早い。
これまで幅広く色んな学びをした。趣味から仕事に活かせるものまで。
でも残っているもの、続けていることは片方の手でも余る。
魂を生きるとは、かなりシンプルなことだ。
進まないのなら、あとから後悔し、その情景を幾度となく思い出し、結局はやっぱり、明日か明後日再挑戦するだろうと予想がつく。
さっき胃のところで感じた大きな風船は、怖さともうひとつ、ここから立ち去ったら後悔するだろうなという罪悪感にも似たような感情が入り混じっていたようだ。
「道はわたしの前にしかない」
そんな時のわたしは誰が乗り移ったんだ?というくらい、強いのか? バカなの? 意固地なのか? 強情なのか? 突き進む!
自分を信じる。そしてスピリットガイドを信じて前を進む。
戻りかけた足先を、またお墓の方に向けるのに30秒もかからなかった。その間にいろんな想いが流れでた。
お墓を通り抜けるくらいなんでもなかろう?と、思われるかもしれない。
久高島の墓所のエネルギーは、言葉で表現するのが難しいのだが、とにかく「なにかある」のだ。
すでに死者の魂はニライカナイへ旅立っているので幽霊ということではない。だが霊的な何かがその場所を守っているような印象だったし、それを感覚を通して伝えてくる。
※ニライカナイ
遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界。
豊穣や生命の源であり、神界でもある。年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にまた帰るとされる。また、生者の魂もニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられている。琉球では死後7代して死者の魂は親族の守護神になるという考えが信仰されており、後生(ぐそー:あの世)であるニライカナイは、祖霊が守護神へと生まれ変わる場所、つまり祖霊神が生まれる場所でもあった。(ウィキペディアより)
不安、他者の家に勝手に上がりこんでしまったような気まずさが大きな風船となって胃のあたりでその存在を知らせている。それでも、わたしは墓所へ足を踏み入れた。
誰に会うことなく、恐縮しながら、墓所の間の道を進む。
不安の影には、死者の霊にとり憑かれるのではないかという微妙が怖さもあった。
大丈夫、大丈夫と思いながら、やはり過去生からの影響は強烈なことを理解し、ようやく墓所を通り抜けた。
その直後だった。
前方から自転車に乗った男性3人がやってきた。
観光客というよりは、どこかの大学の先生のように思えた。
久高島の儀式的なことを研究しているのかもしれないと、ぼんやり考える。
「こんにちは」
声を掛け合った瞬間に、力が抜けた。魔法が解けた。そんな気持ちになった。
墓所を抜けた途端にひとに会うとは、やはりこれまでわたしは異次元、異空間を彷徨っていたのかもしれない。
フボー御嶽へ行く道を歩きながら、今日これまで経験したことを思い返す。
その途端・・・
「死と再生」
そんなメッセージがやってきた。
久高島は、綺麗に神界、霊界、人間界と分かれているように思った。
集落があるところは人間界、神へとつながる御嶽などがある自然はいわば霊界でもある。
そして、神が降り立ったとされるカベール岬がある神界へとつながる場所。
なるほど。
わたしは人間界からあの世を通り、そしてこれから霊界へと行こうとしていた。
墓所を通ったことは、 ある意味一度死んだともいえる。
肉体をなくすことなくひとは死に、そして復活する。
神の島 祈りの島 久高島 島そのものが異界への扉であり、異次元へつながる場所。
神へとつながり、大いなる宇宙へとつながる場所。
有名、著名人が天啓なのか、インスピレーションなのか、それを求めてやってくる意味が分かった。
殻を破ってなどの甘い言葉で表現されるようなものではない。
これまでの自分を亡くし、新たな自分を誕生させる場所。
その覚悟をもって訪れるのなら、次の扉は開かれるように思う。
死と再生
天の岩戸開き
魂と自然のスピリットがシンクロしたとき、何かがおこる。
続く。
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