それは、前の週に訪れた神奈川県 江の島 江島神社にある龍宮から続いていた。
そこでも、いつものようにみせられたモノクロームの映像。
なにを意味しているのか、さっぱり分からなかった。
次に向かったのは、箱根神社。
明確に、はっきりと箱根神社に来いとか、行けとかメッセージがあったわけではないが、なんとなく箱根に行きたかった。
ひと的意識が小さくなるほどに、霊的意識が高まる。そして、高次元のエネルギーとつながりやすい・・・というより、感覚として、一体化しやすいという表現があっているかな。
さて、箱根神社。
外出自粛の影響もあって、参拝客もまばら。
ゆっくり、のんびり写真を撮りながら熱いエネルギーを発する杉木立ちの間を抜け、階段を上がっていく。
階段を登り終えても、やはり参拝客は数えるほど。
参拝、写真を撮り終え、隣の九頭龍神社 二社へ。
賽銭箱にお賽銭を投げいれ、いつもの二礼二拍手をしながら、こころのなかで、「ここでは神メッセージの映像をみさせられるような気がする」と、思った。
これまで目を瞑るまで映像がやってくるかどうか分からなかったが、ここでは初めて予感めいたものがあった。
そして、そのとおり、まもなくいつものモノクロームの映像はやってきた。
ここはどこなんだろう?
ひとの型をした白いシルエット。顔は分からない。女性なのか、男性なのか。いや両性具有なのかもしれない。
この映像を見続けるのは、結構難しくて、少しでも第三の目の位置が変わったりすると、それで終了!
しかし、その直後だったろうか。
あたまのなかにメッセージ。
「祭祀が汚れている」
祭祀とは?
神々や祖先などをまつること。祭典。祭儀。まつり。(コトバンクより)
神仏を祀る場所が汚れているということだろうか?
ふと、古代祭祀という言葉が浮かんだ。
古代、日本でも、木や石や岩などを神の依り代として、それを祀っていた。
いまでもそれが続いているところもある。
山や川など自然のなかに、台所やトイレなど家庭のなかにも神さまがいるという八百万へとつながっていった。
さて、古代祭祀形式。
道端の、林のなかに、見ため的になんて事のない石、ちょっと大きめの岩、木などに天の神が依りつく。
そこが天と地をつなぐ場所なのだ。
だが、時代を経て、それが無くされてしまったところは多いだろう。
ひとが大勢暮らし、経済活動の拠点になっているような場所は祭祀にはならない。
エネルギーが汚れ、波動が落ちるからだ。神霊がよりつけない。
人びとが暮らす地より遠からず離れている場所、ひとが行きやすいんだか、行きにくいんだか、発展しているとは少々言い難いような場所。
口をついてでた言葉が、「いいところなんだけど〜、なんか行きにくくって、微妙な場所にあるんだよね〜」となってしまうような場所。
そこは神が依りつく場所にて、ひとが住む場所にあらず。
この世界の大多数のひとと神では、周波数が違う。
短時間お祈りするのにその場所に向かうのにはいいが、ずーっとい続けると、なんだか不思議とソワソワしてくる。
そんな感じかもしれない。
そのため、この国の強いエネルギーを有する神おわす場所は、誰も近寄らない山のなかとか、ひとが近寄りがたい山のうえとか、えっ!?こんなところにあったの?と、思えるような場所にある。
そして、来るもの、参拝を許すものを神が選ぶ。
仰々しい言い方だが。これもまた魂の本質的役割による引き寄せ。エネルギーコードや周波数が関係して来る。
さて、関東の祭祀の場所はどこだろう?
関東の要となる神社はいくつかあるが、そのなかでも鹿島神宮や香取神宮、大宮にある氷川神社などは知られるところだ。
確かに、少し前には鹿島神宮が盛んにメッセージを送ってきていた。
これらの神社ももちろんだ大事だ。
しかし、九頭龍神がいっているのは、そこではないような気がしている。
九頭龍大神。
饒速日命・瀬織津姫が名前を変えられ、祀られているという。
その正体は謎といわれることが多い、饒速日命・瀬織津姫。
この二神が神旅でもよく登場してくる。
また、箱根神社は、以前は箱根権現ともよばれ、文殊菩薩・弥勒菩薩・観世音菩薩を本地仏とされていたという。
そういえば・・・。
3 6 9 ミロク 弥勒の世・・・。
さて、九頭龍神社のお参りのあとは、芦ノ湖へ向かった。
その周辺、いつもはひとが多いので、写真は諦めていたが、ここもひとがまばら。
湖上の風と水の音が心地よい。
そして、その周辺にある杉のエネルギーが大好き!
桜の一種なのだろう・・・写真を撮っていると・・・。
ん? ん?
誰か後ろにいる? 大きな圧迫感を感じる。しかも近い!
振り向く。
誰もいない。
ん? んん? この感じ・・・去年、沖縄の久高島で感じた・・。
でかい!と感じるスピリットのエネルギー。
まっ、いいや。深く考えず、撮影続行。
それが終わり、また神社へと戻る道・・・ふと横を見ると、溶岩なのだろうか? 岩が気になる!
芦ノ湖とは?
約3000年前、中央火口丘の一つである神山が噴火した時に山体崩壊をおこし、カルデラ(※3)内にあった大きな湖に流れ込むと同時に、早川をせき止めた結果できた湖です。(箱根ジオパークより)
近づいて写真を撮り始めると、緑? 青緑の筋が写る。
あれ? これは・・・先月行った明治神宮の御苑で撮った写真にも表れていた。
残念ながら、実際の画像には写っていない。わたしに見せるためだけに現れたエネルギーのようだった。
そういえば、御苑のなかの池のほとりで写真を撮ったあと、来た道を戻ろうと思ったが、ふと、こっちに来いといわれているような気がして、道を外したことを思い出した。
池
湖
直後の、緑? 青緑のエネルギー・・・。
一説には龍神ともいわれるが、なんとなく、そうでもないような気がする。
龍神のエネルギーよりも、もっと軽い感じがするからだ。
「祭祀が汚れている」
メッセージが蘇る。
関東周辺にある、いや、日本全国なのかもしれない。
さらに、惑星全体のことなのかもしれない。
ひとが暮らす場所から離れ、ひっそりと隠されるようにお祀りされていた場所。
天と地のつながる場所。
関東近郊なら、埼玉、千葉、神奈川、茨城あたりにそういった場所があるように思う。
饒速日命と瀬織津姫を祀りながらも、表向きは違う神の名前になっているかもしれない。
そして、おそらく、神使いの魂がそこを守るため、どのような形でか定かではないが、縁をもっているのではないだろうか。
それは、まるで、天照大神の神霊が宿るとされた鏡を携え各地を巡った御杖代(みつしろえ)と呼ばれた豊鋤入姫命や倭姫命のように。
神々のメッセージが聴こえてきていないだろうか?
日本の古神道の由来の民間信仰・神道の根底には、あらゆる物に神・精霊や魂などのマナ(外来魂)が宿ると考える自然崇拝があった。その意味では、依り代とは、森羅万象がなりうるものである。一般的に、マナは太陽、山河、森林、海などから来て物、特に石や木につくとされ、そのような物を祀る磐座(いわくら)信仰や神籬(ひもろぎ)信仰が始まっていった。そのようにして祀られる巨石・岩や高木には、現在も注連縄が飾られる。
巫(かんなぎ神和ぎ)とは、霊の依る人をあらわす。特に依巫(よりまし、憑巫・尸童)という。その呼称は『袖中抄』という平安時代末期の書物に「物つきをよりまし」という語が載せられている。
(ウィキペディアより)
そう。神霊は本当に、なんてことない石っころとか木とかにやって来る。
えっ!?ここ?って思えるところなのだ。
久高島で経験した、天と地をつなぐ場所でも驚いた!
えっ、ここ!? そして、この石の塊みたいなの?
↓ ↓
ひとの場合も同じで、「えっ!?わたし?」というひとが、大宇宙と契約を交わした魂だったりする。
故あって名前を変えた神々のように、巫(かんなぎ神和ぎ)も目醒めていない、または活動できていないようにも思える。
最後は、箱根神社の敷地内にある弁天さんと恵比寿さんをお参り。
ところで、弁天さんがお祀りされている池には、鯉がたくさんいた。
驚いたことに、鯉が鳴いた。
初めて聞いてびっくり。
周囲にひとっこひとりいなかったので、最初は空耳か?と、思ったが、聞こえるのは池のなかからだった。
ひとのエネルギーが少なくなると、スピリットのエネルギーを感じやすくなる。
まるでそれは、弁天さんからのメッセージだったようにも思える。
箱根の峠から見下ろした景色。
さすがにここは気温が低かった。
いまが見頃の桜!