間もなく相馬野馬追!
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相馬野馬追については、こちらから!
相馬野馬追に纏わる2つ目は、相馬太田神社。
妙見三社のひとつ。
相馬野馬追・妙見信仰については、ページ最終をご覧ください。
相馬太田神社
うつくしま浜街道観光推進会議(いわき市観光交流室観光交流課より)
ご祭神
天之御中主大神
承平年中(931年 – 937年)に相馬氏の遠祖・平将門が下総国猿島郡守屋城に妙見社を創建したことに始まる。
平将門から十二代にあたる相馬師常が源頼朝の軍に従い、奥州藤原氏との合戦での功績により奥州行方郡の地を賜り、同族の千葉氏から相馬を継ぎ、奥州相馬の初代となった。
その後、元亨3年(1321年)4月22日、下総国守谷城より相馬孫五郎重胤公が御国換えの際、この地へ移り住み、氏神妙見尊を奉じて宮祠を創建して祀った。
相馬家は妙見信仰の信望者で、藩主が篤く信仰していた鎮守・妙見を下総から持参し、敷地内に鎮座させた。その妙見堂が相馬太田神社の由来とされている。
この神社は中村藩相馬氏の氏神として代々崇拝されてきた。
(Wikipediaより)
訪れたのは午後も半ばを過ぎる頃だったせいか、
参拝客は他におらず、太田神社は静けさに包まれていた。
鳥居をくぐり、階段を上ると、
拝殿
ここもまた、先に訪れた中村神社同様、天の氣が強く射し込んでいた。
光の饗宴!
境内社 八幡神社 ↓
太神宮 ↓
足緒神社(足尾神社) ↓
こちらの御祭神は、猿田彦大神のようだ。
それもまた、興味深い。
太神宮と並んでいる。
神社は森の中や林に囲まれている場所にあることが多い。
こちらも周辺は森になっていて、天の氣と合わさり、力強いエネルギーが放出される。
山神を祀る石碑かな? ↓
白山神社 ↓
絵馬殿
本殿下 階段を降りたところに合ったのは、井戸 ↓
おちらの御祭神は、天之御中主大神。
アメノミナカヌシ
天 アメ あめ 雨 水 ・・・
水が湧き出るところ、地の氣が強い。
さて、そろそろお暇の時間。
木立から、もう一度太田神社を振り返る。
ひっそりと、静かに、そこにあり、この地に住む人びとを見守っている。
ここが故郷の方からするなら、
実家に戻ってきた〜と、思わせる太田神社のエネルギー。
境内の外で目についたのは、下の石碑。
どうやらここが、相馬発祥の地らしい。
どうりで、太田神社で感じた故郷感は、相馬藩をアイデンティティにもつ人びとのエネルギーからなのかもしれない。
石碑の近くには、樹木とお社。
民話的エネルギーに和む。
その先には、農作業をしている人がいる。
ここにある小さな八百万はじっとそれを見ているようだ。
相馬野馬追とは?
福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の三つの妙見社の祭礼である。
馬を追う野馬懸、南相馬市原町区に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われる甲冑競馬と神旗争奪戦、街を騎馬武者が行進するお行列などの神事からなる。これらの神事に関しては1952年、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
起源は、鎌倉開府前に、相馬氏の遠祖である平将門が、領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている。鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練が一切取り締まられたが、この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた。公的行事としての傾向が強くなったのは、江戸時代の相馬忠胤による軍制改革と、相馬昌胤による祭典化以降と考えられる。
1868年の戊辰戦争で中村藩が明治政府に敗北して廃藩置県により消滅すると、1872年に旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り、1878年には内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である。
相馬氏は将門の伝統を継承し、捕えた馬を神への捧げ物として、相馬氏の守護神である「妙見大菩薩」に奉納した。これが現在「野馬懸」に継承されている。(Wikipediaより)
妙見信仰とは?
妙見菩薩は、北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。尊星王、妙見尊星王、北辰菩薩などとも呼ばれる。
妙見信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである。「菩薩」とは、本来「ボーディ・サットヴァ」
の音写で、「菩提を求める衆生」の意であり、十界では上位である四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)の一つだが、妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されている。
道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになったと考えられる。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである。
妙見信仰が日本へ伝わったのは7世紀(飛鳥時代)のことで、高句麗・百済出身の渡来人によってもたらされたものと考えられる。当初は渡来人の多い関西以西の信仰であったが、渡来人が朝廷の政策により東国に移住させられた影響で東日本にも広まった。
北斗七星の内にある破軍星(はぐんせい)にまつわる信仰の影響で、妙見菩薩は軍神として崇敬されるようになった。
密教経典『仏説北斗七星延命経』では破軍星が薬師如来と同一視されたことから妙見菩薩は薬師如来の化身とみなされた。
なお、薬師如来のほか本地仏に十一面観音あるいは釈迦如来を当てる例もある。(Wikipediaより)