「 すげ〜のがいるな〜 」
口をついて出た。
それは言葉で表現することの難しいエネルギー、神スピリット。
先日のこと。
千葉県成田市にある麻賀多神社に参った。
千葉県・茨城県沖、太平洋に氣が向いていた時だった。
SNSでもその神社についてを見かけ、こころに残っていた。
調べてみると、「日月神示」が降ろされた場所とか。
日月神示の名前は知っていたし、チラ見をしたことがあったが、これは好みの問題なのでご容赦いただきたいが、内容はさておき「〜ぞよ」という文体が古めかしく読みにくかったので、そのままになっていた。
なので、予言書といっていいのか分からないが、神が示したその書についてほとんど知らない。
だが、このところ、「国常立尊」のエネルギーが動いているように思い、それが気になっていた。
日月神示とは?
神典研究家で画家でもあった岡本天明に「国常立尊」(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物。昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に八巻の神示が降りたとされる。昭和33、34年に何かが発生。非公開の神示がこの前後に降りた物なのかは不明。
天明は同郷の先輩で知人でもあった高田集蔵の誘いで千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)を訪れるが、そこに実験の時に現れた天之日月神を祀る延喜式内社で麻賀多神社の末社である「天之日津久神社」があった。 神典研究家で神名には明るかった天明でも天之日月神がいかなる神なのか、また、どこに鎮座され祀られている神なのかが扶乩実験後もしばらくは分らなかったと後に述懐している。
天明によると天之日津久神社を参拝し厚く御礼を申し上げ、社務所で一息ついている時に予期しない自動書記現象が起こったという。画家でもあった天明は矢立や画仙紙を常に持ち歩く習慣がありこの時も例外ではなかったが、突然、額のあたりに「ピリッ」とした強い衝動と右腕に非常な激痛を感じ、矢立と画仙紙を取り出し、筆を画仙紙にのせたところ自分の意思に反して猛烈な勢いで筆が走り意味不明の殴り書きをした。天明の言葉によれば、右腕に焼火箸を突っ込まれたような激痛だったという。
以前から霊的体験が豊富で自らも霊媒役などを務めた経験がある天明は、右腕の激痛時にこれらは自動書記の前触れかもしれないと瞬間的に思った。同時にこれ程強く肉体に感応する場合は従来の体験から考えて幽界からの感応ではないかと思い、少し困惑もしたという。(Wikipediaより)
先にみっちり調べておくと、それが潜在意識に残り、あたまの中に浮かんだことが、どこから発出されたものなのか分かりにくくなるかもしれないと思い、また、後からエネルギーの区分けが面倒なので、神旅の前は行くことになる先についてはほとんど調べない。
麻賀多神社は千葉県成田にあり、日月神示が記された場所!
その情報をインプットして出かけた。
麻賀多神社やそこで体験したことは、後からじっくり書くことにして、この回では、その末社の「天日津久神社」での出来事を書く。
先述したように、岡本天明氏が「天日津久神社」参拝後に、日月神示の自動書記が始まったとされているが、この時のわたしはそんなことは全く知らず。神社内にある順路にそって歩みを進めていた。
社殿 → 摂社・末社 → 大杉 → ・・・・と、
やがて、社殿の後ろに回る・・・
「 すげ〜のがいるな〜 」
そんな言葉が勝手に出てきた。
高潔・高貴・・・う〜ん・・・どう表現できるだろうか・・・。
言葉を探してみたが、そこにある八百万スピリットを表す形容詞がみつからない。
どこの神社でもあるような、シンプルな鳥居のなかに陽の光に照らされ鎮まっていた。
静かでも、強いでも、やはり適当な形容詞が見当たらない。
直感的に、日月神示は、ここに降りてきた八百万スピリットによって書かれたものだと思った。
どう説明することができるだろうか。
八百万もさまざまな段階にある。
地球にある八百万
天にある八百万
地にある八百万
陰と陽
二極であり、
ふたつでひとつで、この世界に機能する。
さらに、地球にあるさまざまなエネルギーとシンクロする。
ひとが身近にあるので、ある意味、人間くさい。
氣が大きいとか、小さいとか、強い・弱いとか、表現する氣は直接・間接的に、ひとの肉体や感情・思考を刺激する。
だが、天日津久神社で出会った高位の神界にある八百万は、それらすべて無かった。
さて、どのように表現すればいいだろうか。
相変わらず、言葉が探せないでいるが・・・
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なにもないけど、すべてある。
招かれ、引き寄せられ、言葉にならない「なにか」が動く。
光輝くさまを眺めていると、うちから湧き上がるものがあった。
言葉にするのももったいないような、
だから、感動のうちにその場を離れようと、鳥居の外にでた。
しかし、引き寄せられるように、鳥居のなかに招かれた。
なにかあるのだろうか?
目を瞑る。
光に満たされ、光に問う。
光輝くエネルギーのなかにあり、
やがて、
言葉が浮かぶ。
愛
愛
それは、愛だった。
それは、大宇宙に匹敵する、愛。
興奮も、喜びも、
感動も、高揚も、
ない。
ひと的な情緒は一切合切ない。
だが、
分かるのだ。
分かるのだ。
なにも動かない。
ひと的な感覚が、すべて停止しているような、そんな気持ちになる。
だが、分かる。
高い次元でのシンクロニシティ。
霊(スピリット)グループのシンクロニシティ。
引き寄せられた
鳥居に入った
高い神界の扉が開いた。
そのエネルギーが流れてきた。
まとめると、そのような過程があっただろうか。
独神
そのような言葉がやってくる。
独神(ひとりかみ)とは?
単独である神のこと。
天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・国之常立神などの神がそれにあたる。
そうか!
ここで人間くささを感じないのは、独神だからだ。独りで輝ける。光であることができる。
ひとつのエネルギーだけで、純粋なのだ。
ちなみに独神に対して、日本神話では男女(陰陽)一対の神のことを、双神というらしい。
国うみ、神うみは、イザナギ・イザナミの夫婦神から始まった。
そこからは、波動を落としながら、ひとは今にある。
ところで、そこに在った神スピリットが、日月神示を下ろしたという国之常立神なのか?
そのときはわからなかった。
もしかすると、時間が経って答えはやってくるのかもしれないが、この記事を書いている今でも、それは分からない。
ただ、高い次元の神スピリットであることだけは理解できる。
天日津久神社をあれこれ調べてみると、明確なご祭神が分からないという記述を多くみる。
またこの神社の名前は、日本ではここでしかみることができないとか。
ひと的意識で理解しようとするなら中途半端で終わるが、ハートのチャクラを介しシンクロすると、さまざまな理解と気づきがあった。
また、麻賀多神社の境内には、天日津久神社以外にもさまざまなエネルギースポットがあった。
そのひとつが、下の写真の大杉だ。
東日本一の大杉という。
圧巻!
詳しくは、また別の記事でご紹介したい。
天日津久神社から離れ、その後も境内を散策していた。
もう一度、大杉に会いたくなって、そちら方面へ向かう途中、見るともなしに、ふと、天日津久神社に視線を向けた。
あれ? さっきと違う。
少し驚いた。
あの鳥居の内側にいた少し前までは、その境内は高い次元のエネルギーに境内は満たされ、お社もキラッキラに輝いていた。
陽の光が当たっていないという物理的なこともあるだろうが、先ほどまでのエネルギーを感じない。
気づいた。
しかし、それを説明するのは憚れるので、「開くときがある」とだけ氣しておこう。。
この世界には、さまざまな予言書やそれに類するものがある。
真もあり、
偽もあり、
どこに縁がつくか、引き寄せられるかは、有するエネルギー次第!
ここでは、真の予言書とそれに類するものについて述べよう。
予言めいたもののなかに、人びとが恐れを抱く内容も少なくない。
真のそれであってもだ。
しかし、それは、大宇宙の愛。
注意喚起!
警告!
督促!
人間界の表現ならそんなことだろうか。
人類よ。
なにもしないなら、行動をおこさないのなら、予言を実行しよう。
そうでないのなら、神(大宇宙)の印を与え、どのような形であっても救済しよう。
予言は変わる。
変えられる。
とある予言書が書かれたとき、霊界のエネルギーはその状態だった。
それが現象界で表現されていた。
悪戯に恐るよりも、
地球にあるスピリットが一丸となってこの世界に変化をもたらそうとするなら、
大宇宙は祝福するだろう!
光
天岩戸開き
天日津久神社で経験したエネルギーは、そう伝えているように思えた。