すべてが終わり
すべてが始まる
「はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
〜 中略 〜
主なる神が地と天とを造られた時、
地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。
しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。(旧約聖書 創世記 Wikipediaより)
1日目 神は天と地をつくられた(つまり、宇宙と地球を最初に創造した)。暗闇がある中、神は光をつくり、昼と夜ができられた。
2日目 神は空(天)をつくられた。
3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせられた。
4日目 神は太陽と月と星をつくられた。
5日目 神は魚と鳥をつくられた。
6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくられた。
7日目 神はお休みになった。
(Wikipediaより)
Instagram投稿からの続き。
なにかに気づきそうで、なにかを思い出しそうな・・。
それは、実家で産土神社を参拝する道程からますます強くなっていく。
ふとしたきっかけは、富士山近くにある魔王天社を参拝したときのこと。
意識の奥のほうに、なにかがひっかかる。
ある朝、言葉がやってきた。
「はじめに神は天と地とを創造された。」
なぜかその日、江の島 江島神社への参拝を決めた。
いつものとおり辺津宮から中津宮へ、そして奥津宮と順に参拝をしていく。
ちょっとずつ、微かにビジョンを見せられるが、理解できないまま歩を進めていた。
最後は龍宮。
ここは洞窟のようになっていて、大概、なかには入れないようになっている。
しかしこの日は例祭かなにかだったのか? 洞窟内での参拝が許された。
目を瞑る。祈る。
すぐにビジョンはやってきた。
いつもより大きな映像。
例えるなら、これまでは3cm四方のスクリーンに映し出される映像をみていた。この日のスクリーンは7cm四方に大きくなっていたので、映り出されている景色もはっきりくっきりとわかる。
しかし、それは何を意味しているのやら??
そこで、やってきたのが冒頭の言葉だった。
すべてが終わり
すべてが始まる
すべてが終わり
すべてが始まる
何度も繰り返される。
一瞬、頭で考えそうになったのを、意識をハートのチャクラに向かわせ、エネルギーをシンクロさせる。
サードアイが捉えている映像は、変わらず。
そのうち、創世記の言葉が浮かぶ。
ハッとした。
参拝を終え、龍宮からでた。
映像と記憶と意識と知識がごちゃ混ぜ状態。なにかがすぐに表出することはなさそうなので、経験をしばしわきに追いやった。
だが、考えることもなく、答えはすでにでているようだ。
見えた映像と創世記で書かれていた内容の一致。
岩? 黒い雲? どこにも命はなく、草木も、動物も、ひとの姿もない。
音もなく、空気や水の流れも感じられず、無機質であり、それでいて混沌としているような、そんな風景。
「地は形なく、むなしく、・・・」
エネルギーとエネルギーがシンクロし、アカシックをみせられたのか。
記憶。
惑星にある形あるものは、スピリットが顕現したもの。
モノと霊 2つでひとつ。
さまざまなエネルギーがシンクロし、形作られている。
木も花も、山も海も、犬も猫も、石も鉄も、火も炎も、あのひとこのひとそのひとも、見えている姿形は器。
霊(スピリット)が入るための器。
霊(スピリット)が進化のため、それぞれの目的が成されるような器を選び、環境を選び、最適なときの流れを選び、惑星へ顕現する。
選んでとか、やってきたという表現はいかにも人間的・情緒的ではある。ひとにしろモノにしろ、ある周波数で表現されるエネルギー体。
宇宙の条件とさまざまなエネルギーがシンクロしたとき、コトがおきる。
宇宙の条件。それを霊的には父なる大宇宙の采配。
ここが科学と霊的なことの混乱しやすいところだ。
科学や実証できないものは意味がない。
しかし、霊的な感覚が発達している人間の場合には、関わる周波数が違うため、想像を超えた領域を体験している。
原子や分子で証明できなくても、祈りの魂たちは意に介さない。
それがひとの恐怖心や嫉妬心、疎外感を煽る所以だろうか。
一見敵対しているように思える関係性が、大宇宙からは協働関係なのだ。
ただ属するグループが違うだけ。
惑星においての役割が違う。
現在の惑星の周波数では、すべてのひとが直感を受け取れる状態にはない。
そこで、宇宙神子がそばにいることによって、高い次元へ導管がつながり、太くし、エネルギーを流す。
結果、そのひとは魂とつながり、直感を得たり、場合によってはグループスピリットにつながることもある。
まとめてみると、
宇宙神子は、フォースを引きおろし、うちに循環し、外へ円環する。
その他のスピリットグループは、そのフォースに刺激を受け、魂とシンクロさせ「こと」を成す。
「こと」はそれぞれ違う。科学や化学に物理に医学にと、あらゆる学を研究するスピリットグループもあるだろうし、
その研究に基づいて、モノを開発するグループもあるだろう。
さらに、そのモノを使ってサービスを展開するグループ。
それらを生きとしいけるもののために役立てることをするグループ。
それぞれに役割が違う。
あるとき、ひとは気づいた。
見えざる力を。
それを欲した。
それを利用しようとした。
欲のために。
だが、欲を満たそうとするのなら、惑星にある低位のものたちへ働きかけ、その力が必要になるのだが、普通の人びとにはそれはできない。
そこで、司祭や巫女、霊媒などを生業としているものが利用されるようになった。
なかには、天界とのつながりを維持するための魂もあったろうが、その者のうちなる闇と惑星にある低位のものたちがシンクロし、欲求は叶えられた。
それは、大宇宙が放つ聖なるエネルギーとはほど遠く、惑星の波動を落とし、不穏なエネルギーが広がっていった。
惑星は進化し、変容の道を進んでいる。
惑星にあるひとはもちろん、神といわれるスピリットも進化の道程にある。
それらの霊的進化が惑星の霊的進化に大きく関わってくる。
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」
神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。(旧約聖書 創世記 Wikipediaより)
惑星にある動物界や自然界などの進化は、これもまたひとの進化に影響される。
ひとが霊的に進化するなら、動物や自然界のスピリットの霊的進化もなされよう。
だが、前述したようにひとは自分の欲を満たすため、低位にあるスピリットを神と勘違いし、すり替え、崇め、利用した。
魔王天社を訪れたとき、進化の段にある惑星にある神スピリットとひとスピリットの関わりがみえた。
ここは富士山の龍脈・レイライン上にあるため、神スピリットは粛々と進化の道程を進んでいる。
しかし、そうではない神スピリットも多いことだろう。とくにこの国は、八百万の神という、自然界をはじめさまざまなところに神と祀られるスピリットがいる。
地にある神の多くは進化の途中にあるため、ひとが放つエネルギーによって聖にも邪にも変幻する。
場所に移築されたり、名前を変えられたり、統廃合されたり、邪なる私利私欲に利用された神スピリットは歪み、波動を落とし、調和がとれず、その地やそこに住まうひとやさまざまなスピリットに悪影響をおよぼしてしまっているかもしれない。
龍穴・龍脈
地にある生命エネルギーが吹き出し、流れる道筋。
ここに太陽の道 聖なるエネルギーが注がれるのなら、天と地はつながり、調和・安定し、さらにエネルギーに満ちることだろう。
その地に住まう人びとも安穏となる。
惑星の生命線。
山が放つ龍脈を聖なるエネルギーとつなぐため、高位の神界にある神が配された。
だが、なんらかの理由で生じた波動の低いエネルギーによって、龍脈がつながらなくなった。
その山が支配する地は安定せず、その地に住まう人びともそれに影響を受けた。
山の神の祟りだ〜
○○が怒っていらっしゃる〜
この神を勧請しよう! この仏さんを・・・
そうやって神仏がどんどん増えていったのだろう。
山が安定し
龍穴が吹き上がり
龍脈がつながる
しかし、
そこには必ず、
大宇宙からの聖なるエネルギーが流れていなければならない。
「はじめに神は天と地をつくった」
ならば、ふたつはひとつ。
そして、低位のものたちに安易に働きかけ、利用してはいけない。
天と地をつなぎ
一本のエネルギーラインができあがったとき、
カルマが解かれ、
その地にある低位にあるスピリットは霊的進化がなされ、
解放される。
もし、ひとが自分の欲や虚栄心だけで、低位のものを利用するならば、
それは、首に縄をつけた犬をアフリカのサバンナに放ち、食料を狩ってこいといっているようなものだ。
自然界のスピリット、八百万が作りだすエネルギーラインはひとの私欲のために利用するものではない。
あと数百年か後には、進化系神スピリットとひと的スピリットの境界がうすくなり、お互いのエネルギーを感知し始まるだろう。
惑星変容のため、ともにあることの意味が理解できるようになってくる。