【祈り】山の叫び 火の叫び 人の叫び 声なき声を 天地の狭間 時空の狭間で聴く   鬼押出し園 浅間観音堂・群馬

2024.4.7  Chikako Natsui
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浅間山 天明の大噴火

1783年7月8日(旧暦) 午前10時頃

4月、鳴動が始まり、大地は鳴り響く。
その後、何度となく爆発、震動がおこる。
7月に入り噴火活動は最高潮に達した。
7日の夕方から激しい噴火となる。

7月8日、前夜の鳴動もますます激しくなり、
夜が明けても空一面黒煙に包まれ、夜のように暗かった。

そして午前10時頃…

浅間山が光ったと思った瞬間、真紅の火炎が数百メートルも天に吹き上がると共に大量の火砕流が山腹を猛スピードで下った。
山腹の土石は溶岩流により削りとられ土石なだれとして北へ流れ下った。鎌原村を直撃した土石なだれはその時間なんとたったの十数分の出来事だった。
家屋・人々・家畜などをのみこみながら土石なだれは吾妻川に落ちた。鎌原村の被害は死者477人、生存者は鎌原観音堂に逃げ延びた93人のみだった。

この噴火の際、最後に流出したのが鬼押溶岩流である。
〈嬬恋村誌上巻 自然界 浅間山のおいたち・浅間山噴火史より抜粋〉
鬼押出し園HPより)

 

 

災害と復興がつなぐ 人々の営み  浅間山北麓ジオパーク

上信越高原国立 鬼押出し園

 

遊歩マップ

 

鬼押出し園の「鬼」とは?

いつ誰によって付けられたかは明らかでない。
〈上州浅間嶽虚空蔵菩薩略縁起〉によると…

浅間山には“鬼”が住んでいることになっている。しかも、その鬼の行状が噴火に係わっているとみられることから、おそらく、押出しの奇異な現象を目にした里人によって、自然発生的に名付けられたものであろう。

この爆発の溶岩の規模は山頂火口から北方へ約5.5km、幅は800m~2kmとされ、その面積は6.8平方キロ、容積は0.2立方キロに達すると言われている。
(鬼押出し園HPより)

 

奇岩の向こうに、浅間山。雲が多いため、山頂が見えない。

 

 

惣門 二天尊像(持国天・増長天)

 

後のご紹介となるが、園内には、徳川将軍家に縁のある東叡山寛永寺別当 浅間山観音堂がある。

 

 

 

太陽の光が、龍の顔を形どる

 

 

冬の名残りの雪を楽しみながら、浅間山の大きなエネルギーに触れる。

 

 

 

 

浅間山

標高2568メートルの成層火山。
数十万年前から周辺では火山活動が活発であり、浅間山は烏帽子岳などの3つの火山体とあわせて、浅間連峰もしくは浅間烏帽子火山群と総称される。これまでに噴火と山体崩壊を繰り返し、現在の姿となった。大規模な山体崩壊と崩壊土砂が流出した痕跡は、遠く離れた群馬県前橋市の台地上などに厚い堆積物として残っている。現在噴火活動をしているのは、前掛火山である。山頂火口からは噴煙が上がり、その周りには複合のカルデラがあり、内側の外輪山の西側に前掛山がある。北側のカルデラは山頂部から「鬼押出岩」へと流れ出た溶岩流により崩壊している。外側の外輪山には、黒斑山、牙山、剣ヶ峰などがある。気象庁は「100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山」として、ランクAの活火山に指定している。(Wikipediaより)

 

 

気象庁によると、現在浅間山は、噴火警戒レベル2 火口周辺規制とのこと。

 

 

 

浅間大神が鎮まる山 離れたところからはとても穏やかに見えた。

 

 

ゴロゴロとした熔岩の中を歩いていると、火星? 異世界を歩いているような気持ちになる。

 

 

奥の院 炎観音

 

天明三年浅間山の大爆発は五月九日より兆し始め、八月五日に至るまで実に八十九日間の長きに亘り荒れ狂い、一大音響とともに噴出したおびただしい熔岩の凝結は遂に天下の奇勝として人々の胸に大自然の脅威をなまなまと訴えておるのであります。
ここに故堤康次郎居士は奉仏の念厚く宿縁により昭和三十三年五月浅間山観音堂を建立して東叡山寛永寺別当となし、天明三年の遭難者の冥福を祈ることになりました。
又、この度観音堂奥の院に安置された、炎観世音菩薩は、神成志保殿のご寄進によるものであります。この御尊像の謹作はご息女の神成澪子女史設計謹作されたものであります。(案内板より)

 

 

 

奥の院参道方面は植物が多い。

重なり合う溶岩の隙間から生え出る草木。どれだけ時間が経てばこうなるのだろう。

自然のダイナミックさというのか、地球の進化を肌で感じる。

地球は生きている!

 

 

 

 

 

 

東叡山寛永寺別当 浅間山観音堂

本尊 観世音菩薩(観自在菩薩)

 

世界三大奇勝の一つに数えられる「浅間山鬼押出し」の中央に鎮座する、東叡山寛永寺別院浅間山観音堂は、浅間山噴火罹災者への慰霊と自然への畏敬をもって、その平穏を祈願する道場です。
江戸時代の天明3(1783)年、浅間山が大噴火を起こし、多くの方が犠牲になりました。その際に最大の被害を受けたのが鎌原村だったのです。鎌原村には当時寛永寺の末寺として、浅間山明神の別当寺である延命寺という寺がありましたが、このお寺も噴火により埋没してしまいました。そのため、噴火罹災者の救済を時の寬永寺住職である「輪王寺宮(りんのうじのみや)」公延法親王が命じたと言われています。(浅間山観音堂HPより)

 

鐘楼堂

 

由来

 

天台宗の教え

 

本堂

 

本堂からの見晴らし

 

 

ひと休み! 浅間山観音堂近くのお休み処で甘酒をいただく。

こちらのお店、「厄除け団子」が人気のよう!

 

 

浅間山観音堂を後方から眺める。

 

 

蜀山人の碑

1783(天明3)年の噴火の際、その救助に奔走し、私財を投げ打って物心両面にわたり、 災害復旧に大きな貢献をした大笹宿問屋の主人黒岩長左衛門(大栄)は、当世、狂歌の第一人者であった 蜀山人(四方赤良)に、碑の撰文(せんぶん)と揮毫を依頼し、災害碑の建立を志した。しかし、長左衛門は 程なくして亡くなり、その実現は中断してしまったが、その子佗澄は1816(文化13)年に亡父十三回忌の 手向けとして、大笹宿の中程の長左衛門宅の向かい側、山裾の急斜面の一部を削平し、碑を建て 「大笹駅浅間碑」とした。碑は2mに達する大きな安山岩の自然石で、その表面には和歌を交えた12行にわたる 本文と記年銘、そして蜀山人、大栄の名を記し、さらに佗澄の1文を添えている。
(浅間山北ジオパークHPより)

 

 

ショート動画 その1

 

雲が徐々にとれ始め、向こうの山々が見えてきた。清々しい。

今もまだ動き続ける浅間山の足元にあって、異なる時空間に入り込み、感心感動、熱く、激しく、悲しい時を行ったり来たりしていたように思えたが、遠くの山に思いを馳せると、「いま」へ脱出する。

 

 

 

ショート動画 その2

 

 

荒れ狂った浅間山には、鬼が住んでいるということらしいが、鬼押出し園にいた鬼は、とても可愛らしかった!

 

 

 

 

 

 

鬼押出し園

 

 

 

 

 

 

 

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