2022年12月も半ばに突入。
訪れのは、福島県白河市にある白河神社。
陸奥の玄関口 白河の関跡にあるお社だ。
白河神社
住所: 福島県白河市旗宿関ノ森120
ご祭神: 白河國造命・天太玉命・中筒男命・衣通姫命
福島県白河市、下野国(しもつけのくに)と陸奥国(むつのくに)の国境の関があった白河の関跡を境内とする神社が白河神社。関の明神、二所関明神と呼ばれ、社伝によれば、古墳時代の成務天皇5年(315年)、白河国造・鹽伊乃自直命(しほいのこじのあたいのみこと)を祀ったのが始まりという古社です。
(ニッポン旅マガジンより)
白河の関
古代の日本における関所の1つ。奈良時代から平安時代にかけて、都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として歴史上名高く、「みちのく(奥州。現代の東北地方)の玄関口」とされてきた。
白河関はヤマト政権が北方の蝦夷に対抗するために建立した前線基地であったが、後にヤマトの勢力がさらに北進したことで軍事的意義は小さくなり、陸奥国との国境検問所という役割が残ったという。
以降、律令制度の衰退とともにヤマト政権の軍事的要衝としての白河関の機能は解消していったと考えられている。白河関は遠い「みちのく」の象徴として和歌の歌枕に起用され、文学的感傷をもたらす存在となった。和歌での初出例は、平安中期の平兼盛が詠んだ「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」(「拾遺和歌集」別)とされる。
平安末期または鎌倉時代始期の1189年(文治5年)、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した際に梶原景季に歌を詠むよう命じると、景季は「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。
(Wikipediaより)
ここから先は、陸奥。
鬼が出るか蛇が出るか。
いまの時代なら、新幹線や車で難なく通過することができるが、前の時代を生きた人びとにとっては、恐れと期待が伴う未知の世界への入り口だったろうか。
また、記憶に新しいのは、今年2022年夏の高校野球甲子園大会で宮城代表・仙台育英高校の優勝!
白河の関越えの悲願。
優勝旗がついに白河の関を超えたと、東北中が歓喜にわいた。
白河の関。
そこには、様々なストーリーがある。
さて、それでは、白河神社へ!
参道
参道へ入った瞬間に、強く大きな氣を感受した。
それに加え、「時」。そのような言葉が浮かんでくる。
時空と時空が重なりあい、独特のエネルギーフィールドが出来上がっていた。
左右の狛犬にセンサーがついていて、通る人のエネルギーをチェックし、特性にシンクロしてくるように思える。
白河関跡
手水舎
古関蹟の碑
白河藩主松平定信が寛政十二年(1800)八月、
ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。
幌掛の楓
源義家が安倍貞任攻め(前九年の役)のため白河関を通過する時、この楓に幌をかけ休息したと伝えられる。
鳥居
参道
矢立の松
1180年、源義経が平家追討のため平泉を発し、この社前に戦勝を祈願、この松に矢を射立てたと伝えられる。現在は少量の根株を残すのみである。
階段
狛犬
拝殿
由緒
古歌碑
境内社・八雲神社
境内社
天神社・熊野神社・大山祇神社・神明神社・愛宕神社・若木神社・雷神社
拝殿に向かって左後方へ行く。
森になっている。
本殿を後ろから参る。
空堀跡
空堀は、敵の侵入を防ぐため、曲輪に沿って掘られた防御施設である。
土塁跡
土塁は、敵の攻撃や侵入を防ぐため、曲輪の縁に土を盛って築いた堤上の防御施設である。
境内にある山城のような空壕(からぼり)と土塁の跡は、関守居館や倉庫などの跡とされています。(ニッポン旅マガジンより)
後鳥羽院 歌碑
「雪にしく袖に夢路もたえぬへしまたしら川の関のあらしに」
稲荷神社
本殿
国津神社
そろそろ帰ろうと、階段を降り、参道を引き返す。
ふと、左側に広がる林に目を向けた。
すると、その向こうにパワフルな氣を発する樹を発見!
まるで、「自分を忘れていやしないか?」と、手招きしているようだ。
従二位の杉
鎌倉初期の歌人・藤原家隆(従二位宮内卿)が奉納した杉と伝わる。
樹齢800年ほどの巨木。
動画はこちらから!
旗立の桜
治承四年(1180)、源義経が平家追討のため平泉を発し、この神社に戦勝を祈願するため旗揃えをした際に、この桜に源氏の旗を立てたと伝えられている。
関
狭間にある場所。
こちらと向こうを、隔て、そして、つながりもつ。
扉は開かれ、閉じられる。
前にあった、先にある、
悲喜交々。
出会い、別れ、
戦い、結び、
過去は今になり、やがて、未来をつくる。
白河の関
未知の奥へとつながる扉
未知の奥からやってくる扉
そこに立てば、
何が見えるだろうか。
白河に来たならば、南湖公園で南湖だんごを購入しようと思っていた。
白河の関から南湖公園までは、車なら10分ほど。
南湖公園
南湖は、寛政の改革で知られる白河藩主・松平定信により、身分の差に関係なく誰もが楽しめる「士民共楽」という理念のもと、享和元年(1801)に築造されました。
当時の庭園は城内や大名屋敷内などに造られ、庶民は立ち入ることができませんでしたが、南湖には垣根がなく、いつでも誰でも訪れることのできる画期的なものでした。
江戸幕府八代将軍・徳川吉宗の孫で、26歳で白河藩主となった定信は、天明の大飢饉の際、自ら率先して倹約につとめ、すぐさま領民を救う食料援助策を行ったため、白河藩からは飢饉による死者を一人も出さなかったと伝えられています。定信のこうした手腕が評価され、十一代将軍・家斉のもとで老中となり、寛政の改革を行い幕政の立て直しに尽力しました。
彼が白河に残した功績は数多く、今でもその伝統と精神がこの地に宿っています。
(白河市HPより)
訪れたのは、湖畔にある「花月」さん!
いくつか種類があったので、あん・みたらしの2種類を選択。
花月さんの前には、湖が広がる。
寒い日だった。湖面は氷がはっていた。
分かりにくいが、湖の向こうには飛来した白鳥たち!
冬ですね〜。
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