【祈り】大きな水の氣が鎮まるお社 奥沢神社・東京

2022.12.26  Chikako Natsui
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2022年11月23日。

訪れたのは、東京都世田谷区にある奥沢神社。

この日は友人とのランチ会。

シンクロしたのは、このお社だった。

 

雨が降る寒い朝だった。

待ち合わせは、東急目黒線 奥沢駅改札。

そこから歩いて5分ほどのところに奥沢神社はある。

 

どうして奥沢神社かといえば、明確な理由はない。

頭の中に、その名前が響いたから!

いつものように、全く知識が無いまま向かった。

 

友人と合流し、そこから他愛ない話をしながら、奥沢神社到着!

鳥居の前に立ち、ギョッとした。

次の瞬間、頭の中に響いたのは、

 

「へび」

 

雨が降っていたせいもあった。

強烈なヘビのパワー! 大きな水の氣が、境内を覆っていることにびっくりしたのと、ひやっとしたので、

無意識に足が後ろに一歩下がる。

 

ここに来て、鳥居が結界とは、大いに納得させられた。

不浄を神社に入れない働きと、もうひとつ、この地に鎮まる八百万エネルギーを外に出さない役割もある。

どちらかというと、この鳥居は、後者の意味合いが強いようだ。

たまに、地の氣が大きく激しく動き、地震となって表出し、鳥居もなにも破壊する八百万がいる。

それほどの大きな地の氣は、おそらく周辺に住まう人びとも巻き込むことになるだろう。

 

そもそも神社とは、八百万・精霊の魂を鎮めるためのものでもある。

 

奥沢神社。

鳥居の前に立った時点ではまだ、ここがへびに所以のあるところとは思っていなかった。

しかし、鳥居のすぐ横にあった案内「奥沢神社大蛇お練り行事」を見つけ、点と点がつながった。

 

 

奥沢神社

住所: 東京都世田谷区奥沢五丁目22番1号

 

ご祭神 譽田別尊(応神天皇)・稲倉魂命

 

奥澤神社の発祥は、室町時代までさかのぼる。奥沢地区近辺は、南北朝時代の貞和年間(1345年-1349年)頃に吉良氏の領地となった。奥澤神社の発祥について、社伝では室町時代に入って吉良氏家臣の大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護神として八幡神を勧請したものと伝えている。当初は八幡神社と呼称され、吉良氏が各地に建立した「世田谷七沢(しちざわ)八八幡(はちはちまん)」の1つに数えられていた

1909年(明治42年)10月には、旧奥沢本村の鎮守である子安稲荷神社が合祀された。

八幡神社は子安稲荷神社の合祀を機に、「奥澤神社」と名を改めた。

江戸時代中期から続く大蛇お練り神事は世田谷区指定無形民俗文化財の指定を経て、2016年(平成28年)3月11日に東京都の無形民俗文化財(風俗慣習)に指定された。
(Wikipediaより)

 

奥澤神社の大蛇お練り行事

江戸時代の中頃、奥沢の地に疫病が流行し多くの村人が病に倒れたことがありました。ある夜、この村の名主の夢枕に八幡大神が現れ「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させるとよい」とのお告げがあり、早速そのとおりに実行するとたちまち流行疫病が治まったそうです。この言い伝えによって奥澤神社の例大祭に大蛇のお練りが行われるようになり、鳥居に厄除けの大蛇が飾られることとなりました。
(世田谷区HPより)

 

 

それでは、奥沢神社へ!

 

手水舎

 

 

雨の勢いが増したように感じられる境内。

 

 

本殿

 

 

雨が強すぎて、本殿でのご挨拶も大変!

 

 

本殿前にあったのは、

シイノキなのかな?

 

 

 

本殿向かって左手から奥へと向かう。

 

 

子育延命地蔵尊

 

 

弁財天社

 

 

この弁才天社は「福寿弁天」と呼ばれていて、かつて奥沢駅の南方100メートルほどのところにあった湧水池に鎮座していたものを、1950年(昭和25年)に移したものである。

弁才天社の旧地である湧水池は「奥沢弁天池」の名で呼ばれ、池の主の白蛇が奥沢の田畑に水の恵みを与えていたと伝わる
ただし池の跡地は商店街となっていて、その名残を確認することはできない
(Wikipediaより)

 

おそらくこの弁財天がこの辺りの地主神なのだろう。

ということは、この辺りは水の氣の大きな土地だったのだろうか。

何気なく調べてみれば、今は昔、この地を治める奥沢城があり、城の北側には大沼という名前の沼があったらしい。

それはすでに埋め立てられ、住宅地になっているという。

 

すると、奥沢神社の地主神のエネルギーは、大沼の主なのだろうか。

 

 

境内で出会った猫。

 

 

庚申塔かな?

 

 

ところで、奥沢神社には次のような伝説がある。

 

奥沢村では、大正時代中期頃まで雨乞いを行っていた。夏に日照りが続いたときには村民から足の速い者を選び、神奈川県の大山阿夫利神社まで水をもらいに赴いていた。大山阿夫利神社へ赴く村民は二子の渡しから船で対岸に渡り、厚木街道を経る道筋をとっていた[41]。残りの村民の中から、途中まで出迎えに行く人がその後を追って出発した

2人はあらかじめ落ち合う場所を決めておき、後から出発した村民が大山阿夫利神社からもらった水を入れた竹筒を受け取って奥澤神社まで運んだ。先に村を出た村民は、急ぐことなく奥沢村へ戻ってきた。この道中では大山阿夫利神社からもらった水を入れた竹筒を運ぶ途中はもちろん、受け渡しの際にも立ち止まることは許されなかった。その理由は、立ち止まるようなことがあるとその場で雨が降ってしまうと信じられていたからであった
(Wikipediaより)