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上の写真は、三夜沢赤城神社の神楽殿。
この写真を見ながら思ったのは、八百万が集っている!だった。
そして、それから少しして、「遊び」の言葉がひっきりなしにやってきた。
遊び
たまに、セッションでも、もっとゆるゆるしましょうとか、
もっと遊びましょうとか、
クライアントの方に申し上げることがある。
意識的には、厳しい人生の中、追い込んだり、縛りつけたりすることで、自身を守ってきた方へのアドバイス。
そうはいっても、苦しい人生を選ばざるおえなかったなら、「遊び」って何? どのようにすれば?
必死に、頑張って、叱咤激励しながら、生きるものでは?
罪悪感、自己嫌悪、他人の目が気になって、、
遊べない。
遊びたくても、遊べない。
そう考えることも多いだろうなと思いつつ、口から出る。
また、こんな経験はないだろうか?
楽しいこと・好きなことをしているはずなのに、心ゆくまで遊んでいるはずなのに、満たされない。
遊んでも、遊んでも、遊んでも、満たされない。
好きな人と、好きな場所に行き、好きなものを観て、好きなものを買って、好きなものを食べて、好きなものだらけのはずが、満たされない。
何度も、何度も、好きなことをやるのだけど、満たされない。
実は、「遊び」とは、心身精神・魂にとって、とても大事なこと。
人間は、「遊び」無くして、魂の成長もない。
では、遊びとはなんだろう?
おそらく、時代の移り変わりとともに、生活様式や娯楽も、何から何まで変わっていった。
言葉の意味も定義も時代・国・文化・宗教観などによっても違いがあり、変化もした。
奈良大学紀要第13号によると、
(抜粋)
あそびは、そもそも用語例では、単に魂を呼びかえすわざであった。(上世日本の文学)
あそぶは、鎮魂を目的にした呪術的動作であった。其が一つの偏向を持って、鎮魂舞踊を行うことを意味するやうに用いられた。
(和歌の発生と諸芸術の関係)
地方で休み、休憩のことをカミゴトといい、オロシ、ワスレ、アソビと同義に併用しているように、もとは、鎮魂呪術を中心とする神祭り(田遊び、雛遊びなど)を行うこと。
あるいは「魂を呼びかえすわざ」という言い方を、現代風に「くたびれた精神を活性化する行為」と言い換えるなら、一貫した本義とみられるだろうか。
世の中には、さまざまな学術があり、「遊ぶ」の説明も少しずつの違いはあるが、「八百万」「非日常」は、共通しているように思う。
ところで、上述の「鎮魂」だが、民俗学者の折口信夫氏によれば、人に魂を鎮めることを意味する。
日常に忙殺され、また、過去から続く重苦しいエネルギーに支配され、さらに、惑星全体に蔓延する「恐れ」によって、
人と魂は乖離し続ける。
ますます、困難な選択をし、場合によっては心身が疲弊する。
現代社会、魂と人間が乖離していることが多い。
というわけで、
「遊び」
地球にも人にも、大事なことだ。
大宇宙全体に大事なことだ。
地球のスムーズな変容
↑
地球のエネルギーの変性(地球の波動が上がる)
↑
鎮魂(人と魂の接続)・人の内なる恐れ・悲しみ・苦しみなどの解放
↑
遊び
ところで、遊ぶには、「遊び場」と「遊び相手」も大事。
民俗学からするなら、「あそび」から展開した神遊びがある。
ここでいう神とは、八百万のことを指し、人と八百万が遊ぶことのようだ。
祀り・祭り 雅楽に巫女舞に、神事に関わる楽器・歌・舞なども、芸術的な見地からの遊び。
遊び = 鎮めの儀式(祀り・祭り)
人も八百万も同じように、「遊び場」では、お互いに鎮魂しあっている。
遊びに特定の、決まった形式・様式が無いのなら、
できるだけ、自由に遊ぶのがいい!
人と八百万が出会う場所
そこで人は、
驕るなかれ 昂るなかれ
頑なにならず 畏まらず
素直になれるのいい。
古代からこっち、
人は形式張るのが過ぎ、
義務的に、儀式や祭事を「執り行う」ことに、意識が向かっているのかもしれない。
ならば、
八百万の声は聴こえず、存在は感じられず。
役割を担う必要が無いなら、
ただ、楽しむのがいい!
すると、自然とそこは、
人と八百万の遊び場となる。