関西4日目は、吉野山ライトワーク🌟
奈良県の中央部・吉野郡吉野町にある吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈へと南北に続く約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称、または金峯山寺を中心とした社寺が点在する地域の広域地名である。
古くから花の名所として知られており、その中でも特に桜は有名で、かつては豊臣秀吉が花見に来た事がある。
現代でも桜が咲く季節になると花見の観光客で賑わう。
吉野山は平安時代頃から桜が植え続けられてきた。 特に桜が数多く集まる所があり、いずれも一目千本と呼ばれ山下の北から山上の南へと順に下千本・中千本・上千本・奥千本と呼ばれている。
吉野山に桜が多いのは、桜が蔵王権現の神木であるとされたことによる。
修験道の開祖とされる役小角は、金峰山(現在の大峰山系)で修行を積み、その結果、金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)が出現して、これを感得し蔵王権現像を彫ったとされる。その時に用いられた木材が桜樹であった。
以降、行者達は桜材を使い権現を彫刻し、これを祀る習わしとなった。
これより桜は神木となり、桜の枯れ木といえども薪にさえせず、一枝を折る者は指一本を切るといったような厳しい信仰が厳守されたという。そのため蔵王権現に祈願する際には、神木とされる桜の苗を寄進するのが最善の供養となる風習が起こり、平安時代の頃から多くの桜が植えられるようになった。
また大海人皇子(のちの天武天皇)が、吉野の寒中で、庭の桜が満開の夢を見て、これが動機となって天下を定めたので、桜は霊木であり神木であるとされ、桜の愛護が始まったとも伝えられる。
吉野山は、大峰山を経て熊野三山へ続く山岳霊場・修行道大峯奥駈道の北端にあたる。
7世紀(飛鳥時代)に活躍した呪術者・役小角は、葛城山(金剛山・大和葛城山)、大峰山で修行を重ね、金峰山(大峰山系)で、金剛蔵王大権現を感得し、この地に蔵王権現を本尊とする金峯山寺や修行道である大峯奥駈道を開いたとされる。
(Wikipediaより)
残念ながら、このライトワークへのお申し込みは無かったので、ひとりライトワーク。
実は、吉野山へ行こうかどうしようか、頭の中でぐるりと回った。
しかし、これもまた地球でのトレーニングとテストと思い直し、行こう!と決めた。
とういうのも、それより2ヶ月ほど前からだろうか、役行者と弘法大師・空海のエネルギーが強く迫ってきた。
どちらも馴染みのマスターたち。
「誰かがいなければ、やらないのか? やれないのか?」
そう問いかけられているようだ。
大宇宙との契約、誓い、祈り。
ピッタリする言葉はどれだろうか。
だが、どれにも、他者は関係ない。
この度の魂の課題の遂行には。
なるほど納得。
修験道の開祖・役行者の修練の地にひとりあって、試され、試され、試され続けたような行程。
自分を見続けた時間。
過去からの亡霊は、恐れ、弱さ、疲れとなって現れた。
しかし、どんな時もマスター達の導き、叱咤激励はある。
そして、またひとつ、扉を開く。
さて、それでは吉野山ライトワーク🌟スタート!
宿泊地の橿原神宮前駅から近鉄吉野線に乗り、吉野駅で向かう。
途中までは地元の高校に通う学生達で賑わっていたが、吉野山に近づくにつれ、殆どの乗客は途中駅で降車し、車内は静かになっていた。
吉野駅 到着!
降車したのは、ほんの数えるほどだった。
世界遺産として登録されている吉野山。
有名な観光地でもある。
それが、朝9時前とはいえ、駅には、登山客と思われる数人しかいないのかと、少し驚いた。
桜の季節ならまた違うのかもしれないが。
駅前のひと気の無さに、少しだけ胃の辺りがざわつく。
これまでも、ひとり神旅で山の中を歩くことも多々あった。
「今回も大丈夫! 楽しもう!」と、少し、自分に言い聞かせる。
なぜなら、まだ歩き出す前から、吉野山にある自然界のスピリットのエネルギーの強さを感じていた。
それが強ければ強いほど、人間界のエネルギーとはかけ離れる。人はそれを異質なもの、馴染みがないと不安になる。
その瞬間、私もそう感じていた。
だが、予定していた通りの行程を魂は進むと決めている。
人間意識は、それに従う。
また、随分前に、吉野山に来たことがある。
金峯山寺。
道路は舗装されていたし、周辺にはお店もあった。
記憶を頼りに、大丈夫! 大丈夫!
魂グループに励まされる。
※マップの金峯神社を目指す!
ロープウェイで、途中の道程をショートカットすることもできるようだが、いつものごとく、徒歩で向かう。
実は、吉野山へ向かうロープウェイ、桜の季節以外、金・土・日・月曜のみの運行らしく、火曜日のこの日はどのみち運休だった。
こちらのロープウェイ、日本最古らしい。
奈良は、日本最古が多い〜。
ロープウェイ駅から、その先に進むと、幣掛神社が見えてくる。
幣掛神社(しでかけ神社)
ご祭神 速秋津比売神
これより吉野山へ登拝するにあたり、古くから旅の安全を祈るため、この地にあるという。
まだ吉野山の入り口なのだが、ここにある八百万の氣の強さに、一瞬、たじろぐ。
周囲を見渡しも、人の姿は無し。
この先は、異次元・異世界を歩くことになり、八百万とともに修練に臨むことになりそうだと予感。
魂は高揚し、人的意識はブルーになる。
ともすれば葛藤を引き起こす2つのエネルギーを統合していくのも、もうひとつの課題。
さらにいうなら、その過程には八百万のエネルギーも加わる。
徒歩ルート 近道と舗装路の2つがあるようだ。
近道の方を目視すると、山道。歩き続けた関西の旅4日目となると、少々足に疲労を感じる。
ということで、歩く距離は長くなるが、地図アプリが案内する舗装路へ一歩踏み出す。
七曲をゆら〜り、ゆら〜りと歩き、最初の目的地・金峯山寺を目指し、人っ子一人いない坂道を上り続けた。
頭の中に「熊」という文字!
え〜っ、熊!? そんな気配は感じられないが、あまりの人の氣のなさに少し不安になる。
観光地で、道路も舗装されているし、こんなところに熊が出るのだろうか?
いやいや、大丈夫でしょう。
すると間もなく、上の方から車の音が聞こえた。見上げてみると、車道があるようで1台の車が走って行った。
一瞬、人の世につながった。
それにホッとする自分に苦笑い。
そして七曲りが終わり、街並みが現れた。
記憶の中にあった風景。両側に飲食店やお土産物屋さんが並んでいる。
黒門 ↓
金峯山寺の総門であり、吉野山の総門でもある。
城郭によく使われる様式・高麗門。
黒門からさらに坂道を上り、そこにあったのは、
銅の鳥居(かねのとりい)
正しくは発心門。
山上ヶ岳までの間に発心・修行・等覚・妙覚の四門があり、これが最初の門です。
行者たちはここから向こうを冥土と見たて、ひとつ門をくぐるごとに俗界を離れて修行する決心を強めていきました。
(吉野町HPより)
「ここから向こうを冥土と見たて・・」
修行者の死を意識した覚悟を慮る。
上の説明内容に、大きく頷く。
修行・修練・トレーニング。
地球への転生の意味。
旅を終えた今だからこそ、腑におちた。
修行者の見守るべく、はたまた選別を行うべく、
銅の鳥居をくぐり抜けた先には、修験道の祖といわれる役行者を祀ったお社がある。
私も、この先の道程を見守っていただくよう、ご挨拶。
役行者
修験道の開祖と仰がれる役行者は、我が国の正史の一つである続日本紀の文武天皇3(685)年5月24日の条に記される実在の人物です。寺伝では舒明天皇6(634)年正月元旦に、葛城上郡茅原の里(現在の御所市茅原)にお生まれになり、幼少の頃から英邁利発で、当時の世相を慨嘆せられ、葛城山(現在の金剛葛城連山)に入って御修行になり、続いて全国の霊山を御開山になった後、熊野から吉野大峯の山々に入って修行され、最後に大峯山山上ヶ岳で一千日の参籠修行をされました。
その結果、金剛蔵王大権現を感得されて、そのお姿をヤマザクラの木に刻んで、山上ヶ岳と山下の吉野山にお祀りされました。
それが、修験道と金峯山寺の始まりとされています。(金峯山寺HPより)
銅の鳥居から少し歩くと、金峯山寺の国宝仁王門が見えてくるはずだったが、現在大修理中でそれは叶わず。
工事終了予定は、2028年。工期にびっくり!
仁王門の横を通り、二天門跡へ向かう。
そこにあったのは、
後醍醐天皇導きの稲荷
足利尊氏(あしかがたかうじ)が京に幕府を開き、光明天皇を新天皇に擁立した延元元年(1336年)。
密かに京の花山院を抜け出した後醍醐天皇が、吉野への途中夜道で迷った際に、とある稲荷の前で「むば玉の暗き闇路に迷うなり我に貸さなむ三つのともし灯」と歌を詠むと、突如として紅い雲が現れ、吉野への臨幸の道を照らし導きました。
「三つのともし灯」とは、伏見稲荷大社の祀られる伊奈利山(稲荷山)の3つの峯を指すといわれ、伏見の神仏が吉野に導いたとされるのです。
伏見稲荷大社は今でこそ神社ですが、明治初年の神仏分離までは、神仏習合で真言密教とも密接な関係がありました。
(ニッポン旅マガジンより)
二天門跡より金峯山寺境内へ入る。
吉野山から山上ヶ岳にかけての一帯は、古くから金の御岳(かねのみたけ)、金峯山(きんぷせん)と称され、古代から世に広く知られた聖域とされました。白鳳時代に役行者が金峯山の山頂にあたる山上ヶ岳で、一千日間の参籠修行された結果、金剛蔵王大権現を感得せられ、修験道のご本尊とされました。
役行者は、そのお姿をヤマザクラの木に刻まれて、山上ヶ岳の頂上と山下にあたる吉野山にお祀りしたことが金峯山寺の開創と伝えられています。以来、金峯山寺は、皇族貴族から一般民衆に至るまでの数多の人々から崇敬をうけ、修験道の根本道場として大いに栄えることとなりました。明治初年の神仏分離廃仏毀釈の大法難によって、一時期、廃寺の憂き目を見たこともありましたが、篤い信仰に支えられ、仏寺に復興して、現在では金峯山修験本宗の総本山として全国の修験者・山伏が集う修験道の中心寺院となっています。(金峯山寺HPより)
そうそう、この感じ!
以前、お参りした時も、国宝・世界遺産である蔵王堂(本堂)に圧倒されたことを思い出した。
表現の仕方が適切ではないかもしれないが、姿形・発するエネルギーがとにかくカッコいい。
まるでそれは、蔵王堂に鎮まる金剛蔵王大権現のエネルギーが形状を変えて現れ、境内のすみずみまでそのエネルギーで包み込んでいるかのように思えた。
その強さ、厳しさ、険しさ、なにをも包み込むような慈悲深さ。
金剛蔵王大権現とは、この御山そのものだと、いまさらに腑におちる。
蔵王堂(本堂) ↓
国宝であり、世界遺産の中核資産に登録されています。
創建以来、幾たびも焼失と再建を繰り返し、現在の建物は、天正20(1592)年に再建なったものです。
その内部には、我が国最大のお厨子があり、秘仏のご本尊金剛蔵王大権現の尊像3体がお祀りされているほか、多くの尊像が安置されています。
金剛蔵王大権現
金峯山寺の御本尊である金剛蔵王大権現は、およそ1300年前に修験道の御開祖である役行者神變大菩薩によって感得された権現仏です。
その感得をされた際の様子を寺伝では次のように伝えています。
役行者は、全国の霊山を御開山になった後、熊野から大峯山脈の稜線伝いに吉野に修行されること33度を重ねられ、最後に金峯山(大峯山)山上ヶ岳の頂上で、一千日間の参籠修行をされました。
苦しみの中に生きる人々をお救いいただける御本尊を賜りたいとの役行者の祈りに応えて、先ずお釈迦如来、千手千眼観世音菩薩、弥勒菩薩の三仏がお出ましに成られました。
役行者は、その三仏の柔和なお姿をご覧になって、このお姿のままでは荒ぶ衆生を済度しがたいと思われて、さらに祈念を続けられました。すると、天地鳴動し、山上の大盤石が割れ裂けて、雷鳴と共に湧き出るが如く忿怒の形相荒々しいお姿の御仏がお出ましに成られたのです。
この御仏が金剛蔵王大権現で、役行者はこれぞ末法の世を生きる人々の御本尊なりと、そのお姿を山桜の木にお刻みになってお祀りされたのでした。
これが、金峯山寺の始まりであり、修験道の起こりと伝えられています。
権現とは、神仏が姿を変じてお出ましになった仮のお姿という意味です。
金剛蔵王大権現は、役行者の祈りに応えて最初に現れられた釈迦・観音・弥勒の三仏が、柔和なお姿を捨てて、忿怒の形相荒々しいお姿となってお出ましに成られたものです。
大変恐ろしいお姿ですが、慈悲と寛容に満ちあふれたお姿と言われます。全身の青黒い色が、その慈悲と寛容を表しています。
まさに怒りの中にも全てを許す「恕(じょ)」のお姿なのです。慈愛に満ちた父母の怒りに似たお姿ともいえるでしょう。
(金峯山寺HPより)
金剛蔵王大権現(金峯山寺HPより)
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拝観料800円を支払い、中へ。
※秘仏ご開帳時は、拝観料1600円。
残念ながら、秘仏ご開帳は約1週間前に終了していたので、お参りすることならず。
しかし、本堂内にはさまざまなお像があり、とても興味深かった。
観光には早く、修行というには遅い、どっちつかずの狭間の時間。
本堂内に人はおらず。
秘されてはいるが、金剛蔵王大権現がお祀りされている場所の前で座り、ゆったりとした時の流れと清廉なエネルギーを楽しむ。
なにを考えるでもなく、感じるでもなく、なにかをしなければならなでもなく、空っぽの状態。
充分な時間を堪能し、本堂から外に出る。
境内にはまだ見ていないところが沢山あった。
すると、先ほどからの私の様子を見ていたのか、お寺の方が、「あちらのお堂も中に入れますよ」と、教えてくださった。
それではと、まず、観音堂へ。
観音堂 ↓
本尊は十一面観音立像をお祀りしています。
南北朝・室町時代ころに創建されたと考えられています。
本尊十一面観音立像は南北朝の作とされ、脇に安置される阿難・迦葉尊者立像(あなん・かしょうそんじゃりゅうぞう)は、現在は廃寺となっている世尊寺(せそんじ)に安置されていたと伝えられています。(金峯山寺HPより)
愛染堂 ↓
本尊は愛染明王をお祀りしています。現在の堂は明和7年(1770)に経蔵として建立されたもので、その後護摩堂として使われていました。昭和58年(1983)、それまで蔵王堂に安置されていた愛染明王を遷座し、愛染堂としました。
この像は明治の初めに廃寺となった安禅寺に安置されていたものです。(金峯山寺HPより)
どちらのお堂も、優しいエネルギーが流れている。
境内のあっちこっちをお参りし、そろそろ金峯山寺から離れようと思い、二天門跡へ向かい始めた時だった。
下の写真にある石で囲まれたお庭のような場所に氣が向いた。
場所そのものが引き寄せる。
「大塔宮(だいとうのみや)御陣地」
そこにあったのは四本桜。
四本桜 ↓
石の柵の中に桜が四本植えられている場所で、「大塔宮(だいとうのみや)御陣地」と刻まれた石柱が建っています。
元弘3年(1333)大塔宮護良親王(だいとうのみやもりながしんのう)が鎌倉幕府勢に攻められて、吉野落城を覚悟して最期の酒宴をされた所です。その際の陣幕の柱跡に植え続けられているのが、この桜です。
どうやら桜の樹たちに呼び止められたようだ。
さて、これから吉野山の奥へと向かう。
先を急いでいるわけではないが、なんとなく内側がソワソワしているようだ。
疲れていなければ、下山時にまた参ろうと、ようやく金峯山寺を後にした。
上千本へ向かい、坂道を上り続けていると、視界に入ってきたのは、
勝手神社
境内には、源義経と別れた静御前が捕らえられ、社前で法楽の舞を舞ったとされる静御前の舞塚がある。
現在の社殿は正保2(1645)年に再建されたもの。社宝としては静御前の装束、義経と鎧とされるものが所蔵されている。
背後には袖振山がそびえ、大海人皇子が奏でる琴の音色によって天女が舞い下りたと言い伝えられている。
(奈良県観光公式サイト「なら旅ネット」より)
主祭神 天忍穂耳命
大山祇命・久久能智命・木花佐久夜比咩命・苔虫命・葉野比咩命が配祀されている。
※『和漢三才図会』に「勝手社 祭神一座 愛鬘命(うけりのみこと/うけのりのみこと)」とある。また、「受鬘命」とも表記される。
吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神の一でかつては「勝手明神」と呼ばれた。吉野川水源に当たる青根ヶ峰は古くから水神として崇敬を受け、山頂付近に金峯神社(奥千本)・山腹に吉野水分神社(上千本)・山麓に勝手神社(中千本)が建てられた。
勝手は「入り口・下手」を意味するともいい、その字面から勝負事や戦の神としても信仰された。
神仏習合時代には勝手大明神の本地は毘沙門天と言われ、さらなる武門の尊崇を受けることとなった。
また、吉野山の入り口に位置することから山口神社ともいわれた。
(Wikipediaより)
境内に入り知ったのは、勝手神社のご本殿は、放火による火災で消失してしまったという。
そして、いまだ再建ならずのよう。
現在はこのような状態。
次の目的と決めた吉野水分神社に向かうので、勝手神社の境内から道路へ戻った。
そこで出会ったのは、散歩中の柴犬氏と飼い主さん。
どかりと道路の真ん中に座り込んでいる柴犬氏の姿とそれをジッと待つ飼い主さんの姿が微笑ましい。。
飼い主さんと「こんにちは〜」と挨拶を交わす。それにつられたように、柴犬氏もヨッコラショと立ち上がり、こちらに近づいてくる。
「触っても大丈夫ですか?」と、グシュグシュと撫でる。
「水分神社への道はこちらですかね?」
二手に分かれる道が気になり、飼い主さんにお聞きする。
「水分神社はこっちです」
教えていただいのは、少々急になっている坂道。
飼い主さんに御礼をいい、柴犬氏にさよならし、教えていただいた道へと入る。
久しぶりのほんわかコミュニケーションを思い出しながら、笑みが浮かぶ。
そして、吉野水分神社へと向かう。