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目黒不動尊から、のんびりと歩きながら大鳥神社を目指す。
地図アプリでは約11分ほどで到着の予定。
道すがら、四方山話に花が咲く!
日常のこと、身体のこと、家族のこと、お不動さんのこと、話の内容は多岐にわたり、あれこれあれこれとしているうちに、到着!
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関東では、酉の市で有名な神社。
大鳥神社の酉の市へ一度は行ってみたい!と、思いつつ、まだ叶わず。
今年こそは!
酉の市(大鳥神社HPより)
ご祭神:
国常立尊
日本武尊
弟橘姫命
ご由緒(大鳥神社HPより)
境内は、広くはない。
しかし、結界が張られているように思えた。
なぜなら、ここは交通量の多い山手通りと目黒通りが交わる交差点に位置し、とても賑やかだ。
それが、鳥居を潜ると、まったく違うエネルギー場になる。
市井と神性がよく分かる。
以前参拝したときには気づかなかったが、「切支丹灯籠」がある。
切支丹灯籠とは?
桃山時代、茶の湯の興隆により露地の明かりとして石灯籠が利用されるようになり、さらには茶人好みの灯籠が新しく考案された。その代表的なものとして、同時代の武将・茶人の古田織部正重然(おりべのかみしげなり)が考案したといわれる織部灯籠がある。竿石(胴の部分)に十字模様や像が刻まれ、これを基督の尊像と見立てて崇拝したので、切支丹灯籠とも呼ばれる。
この灯籠は、もとは目黒村の肥前島原藩主松平主殿頭の下屋敷内にあり、密かに信仰されていたものと伝えられている。高さは130センチ。切支丹への弾圧と迫害が厳しくなった寛永の頃から江戸中期にかけて作られたと考えられる。(東京神社庁HPより)
大鳥神社は、歴史が古く、社紋は鳳凰!
言い伝えによると景行天皇(西暦71年~130年)の時代に当地に国常立尊を祀った社があり、日本武尊が東夷平定の折に当社に立ち寄って、平定達成と部下の目の病の治癒を祈願した。これらの願意は無事に叶い、日本武尊はその神恩に感謝し剣を奉納した。その後日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降り鳥明神として祀られ、大同元年(806年)に社殿が完成したという。この年を大鳥神社では創建の年としており、これは目黒区最古である。
では、大鳥神社の前身の神社は神代から存在が確認されているが、なぜ700年近く社殿造営まで空白の時間が存在したのか?
元々は神社というのは現在のような社殿を持った形ではなく、大きい木を神様が依り付くご神体とした神籬祭祀が主流であったために、社殿は存在しなかった。
江戸図における最古のものとされている室町時代の長禄の江戸図には「鳥明神」として当神社が描かれており、当時の江戸図には9つの神社しか描かれていないため、大鳥神社は江戸九社のひとつとして知られている。また『江戸名所図会』では「大鳥大明神社」として描かれている。(Wikipediaより)
大鳥神社のご神徳もあってか、境内で身体の話や目の話なども話題にもなる。
世間の喧騒から離れ、よっぱら大鳥さんのエネルギーとシンクロし、神社を後にした。
次は、ランチ&懇親&ワークショップ!
毎回会場は事前に決めているのだが、そのときの事情で、入店できないことが多々ある。
そんなわけで、違うお店になるわけだが、それもまた、大宇宙の采配なのか、魂の課題があるのか?
教訓は、「欲や見栄などひと的都合で決めると、つぶされる!」
そんなわけで今回も、ここに行ってみたい!というお店は、貸切とやらで入店できず。
でも、場所柄、お店はたくさんあるので、ぶらぶらと駅に向いながら、お店を探すことにした。
その途中のこと。桜で有名な目黒川に差し掛かる。
橋の上から見下ろした目黒川は、淀み、とても汚れているように思えた。
川面には、黒い浮遊物もある。なんだろう、これは?
それに驚き、そして、これは川のスピリットが大変だわ!と、同情に似た気持ちがわく。
やがて、目黒川を離れ歩き出したわたしの目に止まったのは、したの写真。
「椎の木」と「太鼓橋」の案内。
もしかして、さっき川を眺めていたとき、立っていたのが太鼓橋?
太鼓橋。
Wikipediaによると、1769年に完成し、当時としては珍しい石造りの橋だった。歌川広重が『江戸名所百景』にも載っているとか。
国立国会図書館より転載 太鼓橋・行人坂
ところで、上のリンクから絵をみていて気づいたのだが、江戸時代は、目黒あたりからも富士山がよくみえていたのだとジワリと感動!
ここもまた、富士山からのひとつのラインになっているのだろうか。
下は案内にある椎の木。
いまとなっては、道路脇にあるなんてことのない木と思っていたが、いや、そうではないのだろうな。
氣が向いたということは、椎の木のスピリットからのエネルギーに反応した。
この椎の木は、先に記載した歌川広重の絵に描かれているというから、1700年代にはすでにこの地にあったということだ。
だが、夏の終わりだからか、葉っぱは枯れ、元気がない。
その昔、江戸は水の都といわれるほど、水路が縦横に細かく張り巡らされていたという。
江戸の都市拡大に伴って増大した水需要への対応は江戸幕府にとって急務であった。しかし、特に城下の東南側の低地は湿地帯を埋立て造られた土地であり、井戸を掘っても海水が混じり、良水は得られなかったため、上水道の建設は必須となっていた。上水の建設は、徳川家康が関東へ封じられた1590年(天正18年)の小石川上水(後の神田上水)開削から始まり、玉川上水の完成を経て、さらに1657年(明暦3年)の大火後、江戸市中の拡大によって、四上水が加わり、計6つの上水道が存在した。これを江戸の六上水といった。(Wikipediaより)
目黒のこのあたりには三田上水という用水路があったというが、すでに廃路になっている。
以前は水が豊潤に巡る土地であったのだろうが、いまは昔。
直前に目にした目黒川の流れと元気のない椎の木をみると、そこになにもつながりがないとは言いきれない。
そんなことを思いながら、ホテル雅叙園を右手に目黒駅方面を目指す。
行人坂の途中に差しかかると、右手に大円寺がある。
大円寺
この寺は、江戸の初期、元和年間(1615年から1624年)に湯殿山の行人、大海法印が建てた大日如来堂に始まると伝えられている。
ご本尊は、建久4年(1193年)に造られた清涼寺式釈迦如来立像。昭和32年に国の重要文化財に指定されている。
永観元年(983年)奈良東大寺の僧「ちょう然(ちょうねん)」(注記)が、宋に渡った折、当地で見た天竺渡来の釈迦像に大いに感動した。僧はその像の模刻を日本に持ち帰り、京都嵯峨のお堂に安置した。お堂はやがて清涼寺となった。清涼寺式と呼ぶのは、こうしたいきさつによる。
この寺はまた、八百屋お七の情人吉三ゆかりの寺でもある。
吉三は出家して西運を名乗り、大円寺の下(今の雅叙園の1部)にあった明王院に身を寄せたという。西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提(ぼだい)を弔うために、目黒不動と浅草観音に1万日日参の悲願を立てた。往復10里の道を、雨の日も風の日も、首から下げた鉦(しょう)をたたき、念仏を唱えながら日参したのである。(目黒区HPより)
目をひいたのは、金箔が貼られた薬師如来!
身体の気になる部位に金箔を貼って祈念する。
道案内の道祖神が可愛らしい!
ライトワークを始めた頃は、あそこに行って、ここに行ってと、あらかじめコースを決めていた。
この頃では、とりあえずルートは決めているものの、その時々にあっちこっちと寄り道したりしながら行っている。
それもそのはず、そこここの八百万や精霊たちが氣を向けてくる。
必要があれば、耳を傾け、目を向ける。水を起こし、陽をおろす。
天地の調和を成していく。
ひとは光の道管だ。
地の氣が欲する天の氣を受けいれ、渡すことができる。
それを行うことで、ひともまた天の氣・地の氣に潤され、支えられる。
人間界と自然界など界を超えた調和!
袖振り合うも多生の縁!
ここで会ったのも、なにかの縁!
地球にあるスピリット同士!
ところで、その日の夜のことだった。
無意識にも目黒川がこころに刻まれていたのだろう。
夜中・・・
目黒川のスピリットがやってきた!
詳しくは、こちらから。