今生での私のテーマは「死」
課題は「死に対する恐怖を手放すこと」
さらなる光を増やすには、私のカルマ=課題となっている
「死」に対する恐怖に与えてしまっているエネルギーを
手放し、光へと統合する。
死への恐怖
それは母から無意識にもらったものであり、
過去生から蓄積してきたカルマを
清算するために、私の魂が選んだ人生。
過去生においても悲惨な死に方をしている。
死に方そのものもあるが、死に至るまでの過程も
苦しかった。
信じていた人から裏切られたり、家族から陥れられたり、
その地位や役割によって殉死を強要させらりたりと、
意図していない死に方が多かった。
生きたまま埋められることも何度か経験している。
その恐怖が時空を超えて、魂の周辺に濃い霧となって
まだ少し残る。
幽体の記憶。
ふとした瞬間にその記憶が肉体を通して蘇る。
それは、今生においての母親を含めた血族から
刺激を受けることが多かった。
私の周辺は亡くなる人が多い。
小さい頃から身近に人の死というものを経験しっぱなしだった。
家族が亡くなる人との縁も多い。
気づきを得て、カルマが解消されるまで、
課題を何度も何度も与えられる。
「死」が目の前にさらされる。
私は、「死」は、単に肉体が亡くなるだけとは思っていない。
それはあくまで表面的なこと、三次元的なこと。
死=再生
これまでのことを終了させて、新たなステージを始まることを意味する。
それは亡くなる人の魂であり、その魂に縁のある
家族の新しいステージだったりする。
新しいステージへの転機の一つの形が、死。
それがまた、私の魂に書き込まれていること。
前のブログにも書いたが、母方の血筋は霊界に近い人だった。
だから、世代ごとに何人かは異界とつながる人がいる。
私が知っている限りでは、皆、女性。
私と従姉妹。
母とおば。
大叔母。
今日は看護師をしていた大叔母について書こう。
その職業から人の生死がより身近な人だった。
私が小学生に入っていたのか、記憶が曖昧。
どうしてそのような話になったのか分からないのだが、
大叔母が看護師をしたいたときに経験した、
人が亡くなる瞬間について話をしてくれたことがあった。
亡くなる患者さんは、大叔母の身体を通過して肉体から
離脱していくというのだ。
子どもながら、興味津々の反面、怖い・・・と、思った。
そして、看護師とは、人が亡くなるとき、
身体を貸さなきゃいけないんだと考えたものだ。
こ、怖すぎる・・・。
多分、その大叔母の話がずーっと、ずーっと
私の中に残っていたのだろう。
母が間も無く亡くなるというとき、空中をみて、
母が浮遊していないか確かめた。
悲しいという感情はあったが、人はどうやってあの世に
旅立つのかということに興味があった。
今となっては、看護師の方が全員、逝くときに自分の身体を
貸しているとは思えない。
結局、その大叔母も霊媒体質だったのだろう。
元気になるお手伝いをしながら、
人の魂をあの世に送るということも
無意識にしていたのではないか。
そういう魂をもっていたのだろう・・・な。
看護師という名のシャーマン。
そして、無意識に同じような魂をもつ私に
それを引き継いだのだろう。
スピリットがそう仕向けたのかもしれない。
この世界だけが存在するのではないことを
強烈にインプットし、カルマを思い起こさせた。