先日のInstagramの投稿から、また、このところのこの世界のエネルギーのなかで感じることもあり、こんな言葉が湧き上がる。
正しさ
優しさ
・・・
ひとの世のこれらは、ひとそれぞれ定義が違う。
ある行動が、ひとによっては優しさだが、べつのひとにとっては大きなお世話になることもある。
また、魂にとっても課題の先送り、カルマの積み残しになることも。
ひとがひとを判定することや裁くことはできない。すべては大宇宙のエネルギーによって動かされている。
新型ウィルス
父の手術
わたしの外の世界のこと。だが、なにかしらの影響があるのには、どこかでわたしのエネルギーとシンクロしている。
そして、学ぶ必要のあるなにかがあるのだろう。
コロナ禍でもあり、春分の日とGWは実家へ帰らなかった。
未知なるウィルスに、少し不安と恐れがあった。
一方では、それに反発するうちなる声がある。
みえてること、聞こえてくる情報100%信用できるものではないのではないかと。
信用できないというより、わたしの魂はそれを喜んでいないといった方がいいだろうか。
世の中で正しいとされている情報や価値観は、ある一定数のひとにとっては正しいかもしれないからだ。
しかし、あるスピリットグループ、ある魂段階のスピリットが転生しひととなっている場合、そこに意味をなさないこともある。
わたしにとっての、新型コロナウィルスの意味。
医学的なことではなく、コロナ禍を経験する意味。この世界のエネルギーの変化を経験することは大いに意味があることだと思った。
「わたしにとっての意味」。そこに学びがある。
なにかコトが起きたとして、もたらされる結果は、ひとそれぞれだ。感じること、思うこと、考えるこは、様々だろう。
実家に帰れない…いや、帰らないときが続いた。
この時世、うまくいかないことがあると、なんでもかんでもコロナのせいにしがちだが、実家に帰らないと決めたのはわたし。
強制的にとか、拘束されてとか、行動を制限されていた訳ではない。
世の中の空気や、「もし…」という起きてもいないことを想像するというイリュージョンにハマり込み、若干の恐れと不安にかき立てられ、帰省はしないと決めた。
だが、6月になって父のことが心配ということもあり、帰省を決めた。
この頃、そのとき下りの高速バスのなかで浮かんだことを思い出す。
生きる
活きる
その違い。
すでに80歳を過ぎた父。あとどのくらいこの世でともに時間を過ごせるのだろう。
だが、いまは新型ウィルスとやらで高齢者への感染させないため、地方への帰省はしない。そんな流れになっている。
「万が一!」
いくつかの事例を挙げては、高齢者への感染リスクの怖さが連日報道されていた。
そんななかでの帰省。
そのときに浮かんだのが、上述した「いきる」の違いだった。
この世界には、様々な段階のスピリットがあり、影響し合っている。
経験すること
学ぶこと
行動はそれぞれだ。
生物として生きることを目的としたスピリットグループもあるだろう。
身体が意識の中心となり、心身の健康を保ち、衣食住・ひととひとのつながり・集団生活・集団のなかの自分を経験する。
また活きることを目的としたスピリットグループもあるだろう。
精神や霊的なことが意識の中心となり、今生での自分を通して、パラレルワールドの学びを深めていく。
どの段階の魂でも、ひととして転生してきた以上、心身魂のバランスと霊的なつながりは大事だ。
ただ、転生の課題はどこによって、意識のもっていき場所、生き方は違ってくる。
さて、わたしはといえば、生きるためだけにこの世界へ転生してきたのではない。
心身を健康に保ち生きることは当たり前のことであって、そこに固着し、恐れによってその他の活動ができない状態になるのは、魂は喜んでいない。
誰もわたしを拘束していない。
誰もわたしを閉じ込めていない。
わたし自身が、世間でいわれていることを恐れ、小さくなっているだけ。
勝手に自分を押さえつけて、閉じ込めているだけだった。
過去生での経験がネガティブエネルギーとなり、恐れを作り出した。
さらに、わたしのうちの恐れとこの世界に蔓延している恐れがシンクロし、大きくなっていたようにも思えた。
過度に恐れることはやめよう。
恐れは恐れを引き寄せ、必要以上に大きくなり不穏な結果を引き起こす。
それが、心身に影響をおよぼし、また違った病魔を運んでくる。
わたしは意味なく恐れることはやめた。
しかし、ひとと接する場合には、相手に合わせることも忘れない。
例えば、友人知人のなかには、大きな恐れを抱えていることもある。
そのひとに恐れなくていいよ〜といっても、無意味だろう。
なにをどう感じ、どう考えて、どう行動するかはひとそれぞれ。
先にもいったように、魂の学びはそれぞれだから。
過去の転生のいく度かは、自分と考えが違ったり、思想が違うことが許せなかった時代もあった。
それゆえに、戦いや革命に身を投じることがあった。
違いや不正義がまかりとおることが許せない。
冒頭に記載したが、正しさも正義もひとによって定義が違う
他国でのデモの様子が報道されると、なんとなく懐かしさを感じる。
わたしのエネルギーと様々なエネルギーがシンクロし、そして外の世界を創りだしている。
清なれば、清を引き寄せ、シンクロし、清が現れる。
濁なれば、濁を引き寄せ、シンクロし、濁が現れる。
輪廻転生を通し、それを経験し、学んでいる。
自分のエネルギーを変える。現象を変えるのではない。
ところで、ずいぶん前にこの本を買っていた。
「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ著
お釈迦さんが、覚醒するまでを描かれている。
別の本を読んでいて、その中に、シッダールタが「断食して、瞑想して、考えられるようになった」という記述があった。
そのフレーズに惹かれ、この本を読んでみたいと思った。
それから随分経ったが。
わたしにとって、今、この本が必要なのだと思った。
意識のうちと外の行き来が激しく、ともすれば、エネルギーが混乱しそうな今だからこそ、この本に学びがある。
お釈迦さん生き方に共感できる。
お釈迦さん=シッダールタ。
若い頃のシッダールタはさっさと自我をすて、覚醒したいと修行していた日々。
だが、どんな高僧であっても、導師とよばれるひとであっても、ひとは誰も自分を導くことはできない。自分が知りたい答えを与えてくれるひとはいないと理解した。
あえて、輪廻を経験するために、混沌とした人間界へ身を投じた。金も女も食も酒も、欲のままに手にした。
そうやってひとのうちにある欲を長い年月をかけて経験した。
ひととしてあることの意味、シッダールタは自分を経験した。
そんなところから話は展開していく。
情欲を知り、愛情を知り。しかしそれもまた夢・幻。
あえてシッダールタが導くことができたものがこの世界にあるとするなら、川の渡し守を生業としている学も富も持たぬ男と、川そのものだった。
小学生の頃だったと思う。
ヘルマン・ヘッセの車輪の下という本に興味をもった。
今思えば、なんとも気難しい子どもだったろう。その頃に哲学的なことに興味をもつとは。
しかし、一般的な小学生と自分の違いを受け入れられず、一般的な方に合わせたのだろう。
今でこそ多様性といわれる時代になったが、当時は老いた魂にとって子ども時代は、演じること以外自分を守る術がない。
高齢者が小・中学生を演じているようなものだから、とても奇妙だ。
いまの子どもたちの中にも、またこれから生まれてくる子どもたちの中にも、ある一定数のオールドソウルがいるだろう。
やる気がないような、達観しているような、子どもなのにやたら落ち着いているような、はたまた一見子どもっぽいが、どこかが奇妙な子ども。
子どもなんだから、子どもらしくしなさいとか。
子どもなんだから、子どもが興味もつものを・・と、言いたくなるが、実は、大きなお世話だったりする。
オールドソウルにとって、地球生活は補講の場合もある。
学びたいことにしか興味を示さないので、例えば、それが多数のひとからみれば変わっているとか、こっちの方が楽しいでしょとか、寂しいそうとか思えるようなことでも、逆にそっとしておいてもらった方がありがたい。
さて、話が錯綜したが、わたしにとってコロナ禍であれ、父の手術であれ、そこで感じたこと、考えたことはすべてが学びであり、幽界へつながるエネルギーの通路のひとつを見つける経験だ。
その過程でヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」は、迷い、悩みながらひとの道・霊の道へと歩を進める励ましのような一冊だった!