今、一つの星が 神が創りし 銀河に生まれる
美しく鮮やかに 永遠に輝き続けよう
この新しい星の世界で
〜 中略 〜
Ray 光の夢 星に描く
Ray 光の命 熱く燃やそう
Ray 光の声 空に響け
Ray 光の愛で 星に導こう
〜 中略 〜
Ray 光の歌 君のもとへ
Ray 光の愛を 君に伝えよう
宝塚歌劇 星組公演 「 Ray -星の光線- 」より
Ray 光線
ひとは誰もが、大宇宙からの聖なるエネルギーの媒介者だ。
しかし、様々な要因によって、それを忘れている。できないでいる。
どうやって思い出せばいいのだろうか・・・魂の記憶を・・・。
霊性の高い芸術は、大宇宙の聖なるメッセージのチャンネルのひとつ。
ひとの感覚を刺激し、こころを揺さぶり、魂が目醒め、霊が高まる。
霊性の高い芸術をみること、きくこと、さわること、感じること、あじわい、大宇宙の聖なるエネルギーが魂に流れこみ。
霊性の高い芸術は、魂を刺激するのだ。
しかし、昨今の社会情勢で、「芸術」の世界が窮屈になっている。
まるでそれは、大宇宙からの聖なるチャンネルのひとつがつぶされるような錯覚を覚える。
食べること、生きること、健康であること・・・
大事だ。
その土台があってこそ、ひとは楽しむことができる、活きることができる。
だが、このところの世のなかのエネルギーを感じると、ウイルスより、ひとが・他者の反応への恐れのほうが大きくなっているのではないだろうか。
もしかすると、それは日本特有のものかもしれないが。
ひとりひとりはいいひとなんだけどね〜・・・そんな言葉を人生のなかで一度や二度聞いていないだろうか?
会社組織やなんらかのコミュニティに属していたりすると、そのようなシチュエーションに遭遇する。
そうなのだ。大概、ひとりひとりはいいひとで、優しくって、付き合いやすい。しかし、集団になると、それぞれが幽体に抱えるネガティブエネルギーの相乗作用とでもいうのか、影✖️影が大きくなってしまうことがある。
例えばの話、自分が抱える恐れは10ポイントだった。しかし、とある「場」において遭遇した人びと。
Bさんの恐れが20ポイント、Cさんの恐れが10ポイント。そして、そもそもの自分の恐れ10ポイントを掛け合わせた結果、2000ポイント!
気がつけば、恐れが200倍になっている。
いまのこの世界全体がそのような状態になっているのではないだろうか。
恐れというネガティブエネルギーは、様々な波動の低いエネルギーに活力を与え、さらに混乱した事態をこの世界に引き起こす。
75前の戦争もまた、そのひとつだったのかもしれない。
日本人は、本音と建前が乖離している・・・ある意味、それが文化であり、気質だ。いいとか悪いとかではなく。
本来の自分とひとの目を意識した自分の間に距離がある。いい面であり、厄介な面でもある。
それを本人がしっかり把握していればいいのだが、例えばこの場面では、こんなわたし〜、この場面ではこのわたし〜と、あえて仮面とつけたり外したりが器用でできていればいいだろう。
だが、それができないひとが多く、つけた仮面のしたで窒息しそうになったり、徐々に本来の自分を忘れていく、消していく。
本来の自分と作られた自分の間がどんどんと開いていき、そこをダークエナジーによってコントロールされる。
さて、昨日、東京宝塚劇場にて、宝塚歌劇星組公演「眩耀の谷」「Ray 星の光線」を観た。
当初の予定では、3月終わり頃からの公演の予定だったが、緊急事態宣言等によって延期になっていた。
今回も、宝塚友の会でチケット当選だった。
実は、以前のスケジュールでは、チケットは入手できていなかった。
新トップスターのお披露目公演ということもあったが、演目が宇宙的な内容だったので、当然当たるだろう!と、思っていたのだ。
・・・が、結果はすべて落選。
「あれ? Rayなのに? 光線なのに? 行けない?」
ま、しょうがない・・。と、思っていた・・・ところ、結局、公演は延期となり、改めての抽選が行われたのだ。
結果、当選!
正直、応募するとき、頭をよぎった。「またこれで感染拡大とかいっちゃって、途中で公演中止になったらがっかりだから、早めの日程にしておこう!」と。
不穏なことは思考するものではなくて、東京公演より先んじて始まっていた本拠地 兵庫県にある宝塚大劇場の公演が一定期間中止になるとメールがあったのが、観劇の前日のことだった。
わたしにとって宝塚歌劇は特別だ。
親は衣食住を始め、安心安全な家庭を与え、育み、わたしという「にんげん」は成長できた。 生きることができた。
しかし、生きるだけでは、魂は満足しない。
8歳のころから、始めはテレビで、そのうち舞台を観にいくようになってからずっと、作品を通して、魂にエネルギーを送り続けてくれた。
ある種のひとにとって、「芸術」は、この世界にある意味での重要なエネルギーとなるのだ。
久しぶりの観劇ということもあり、気分は昂まっていたのかもしれない。
自宅の最寄り駅のホームで電車を待つ間、涙がでてきた。
嬉し涙?
魂が喜んでいるのが分かる。
そこから上述したようなメッセージがあたまの中で文字になる。
これから観ようとしている作品は、大宇宙にとっても大事な作品なのだろうか。
こころのなかで、わたしは祈る。
父なる大宇宙よ。あなたの聖なる意思を現すチャンネルをつぶさないでください。
残念ながら、その日の夜、東京公演の中止を知らせるメールがやってきた。
大宇宙はチャンネルと閉ざした。
幽界にある恐れなどのネガティブエネルギーが大きすぎたのか・・・。
エネルギーは双方向に感受し合っている。
大宇宙から惑星へ人類世界へ流れてもいるが、この世界から大宇宙へも流れている。
大きな恐れのエネルギーに大宇宙が反応したのならば、またその逆もある。
祈りのエネルギーに大宇宙は反応するだろう。
恐れを大きく上まわる、祈りのエネルギーが天に、神に、大宇宙に届くことで、閉ざされたチャンネルが開く!
今回の作品。お芝居・ショーともに霊的な内容だと思った。
ショーの光線の映像の作りかた、ホルスの目だろうか、最後の映しかたが印象的だった。
さらに、お芝居はもしかすると、「イスラエルの失われた十支族」が背景にないだろうか?と感じた。
(『エノクの鍵」より抜粋)
さて、大宇宙は、「いま、この時」を、「このシチュエーション」を作り、問いかけをしているようにも思えた。
イエス・キリストの一生は、ある魂グループにとってはお手本だ。
霊性が高まるほどに、使命が大きいほどに、その道は狭く、険しい。
修練・試練の連続。
それでも、「信じるか?」「愛するか?」「やり続けるか?」と、試され続ける。
それでも、「信じる」「愛する」「やり続ける」と、応え続ける。
輪廻転生。魂の後半も後半になってくると、そんな時がいずれやってくる。
芸術の世界に携わるすべての魂がそうではないだろう。そのなかにも聖なるグループとダークエナジーに取り憑かれたグループがあるからだ。
しかし、とある魂グループにとっては、新たなる扉を開き、ステージを変え、飛躍するための大きなポイントのように思える。
いまを暗示するかのような、お芝居の劇中歌だった。
祈りの光 「眩耀の谷」より
雨に打たれて 凍えるような闇でも
いつかは必ず 朝日は姿を見せる
恐れは消え きっとぬくもりが
時の渦に 巻き込まれ 流されても
痛み 忘れてゆくのでしょうか
例え 傷つき 壊れそうでも
時と共に生まれ変わる
穏やかに射す 明るい光
そう信じて 祈りを捧げよう
祈りの光 いつかあなたを
優しく包んでくれる
光溢れる 明日に出会う
そう信じて 祈り捧げよう