雪の日に現れた過去生からまとわりつくダークエナジー。

2020.3.31  Chikako Natsui
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惑星はアセンション、変容している。

 

光が強くなる。

この世界の影が濃くなる。

 

闇があぶりだされる。

 

ひとがうちに抱える闇もまた然り。

 

過去生からもちつづけた幽界にあるネガティブエネルギーが姿を現す。

ひとによって。

 

買い物からの帰り。

ひとや車の往来をさけ、河原の土手を歩いていた。

その日首都圏では、季節外れの雪。寒い1日だった。

 

自治体からの外出自粛要請がでていたせいもあったのだろう。

休日なら家族で賑わっているはずのその辺りも、閑散としていた。

 

だが、雪が降ったこともあり、子どもに遊ばせたいと2組ほどの父子がいた。

雪だるまを作ったり、雪合戦をしたり、楽しそうだった。

 

思わず笑みがこぼれるその風景から視線をさきへ移すと、年配のひとりの女性がスマホで写真を撮っていた。

最初は雪遊びしている父子の家族なのか?と、思ったのだが、どうやらそうではないようだ。

堂々としているのか? コソコソしているのか? 判断がつきかねるような態度で写真を撮っている。

 

家族ではないと判断したあとは、微笑ましい見知らぬ父子の隠し撮り?と、思ってみたが、その女性が発するエネルギーがやはり違う。

 

黒く、禍々しいものを感じたのだ。

 

雪遊びをしている父子とは対照的なネガティブなエネルギー。

 

雪、川、草花、楽しげな親子・・・

 

それらは、その場に調和していた。

しかし、その女性が発するものは、その場には不調和だった。

 

不思議にも、不自然にも思えて、目が離せなかった。

わたしが歩く、少し先に、その女性が何度か振り返りながら写真を撮る。

 

ふと、不調和をおこしているそのエネルギーにネガティブな懐かしさを感じた。

 

これは・・・。

 

前方をガシガシと歩いていく女性から目が離せずにいると、彼女の胸元から白い用紙のようなものが落ちたのかみえた。

だが、不思議なことに少し遅れてその場に行ってみると、なにも落ちていない。

その女性とわたしの間はさほど離れておらず、その間には誰もいなかった。

 

次の瞬間、いろんなことがビジョンとしてやってくる。

 

迫害。

 

なにに嫌な懐かしさを感じたかというと、それだった。

ひとは自分と違うものを恐れる、嫌う、憎む。場合によっては、自分の不幸は他者のせいにし、迫害することで、自分の気持ちを収めようとする。

どんな時代にも光と闇はある。

その形はいまの時代であってもあまり変わらない。

権力者にとって都合の悪いひと、もの、状況は排除される。

虐げられた人々は、こころに憎しみを募らせ、それは他者へと向かわせることもある。

 

ひとの世界の光と闇。

ひとのうちの光と闇。

 

 

さて、雪の日に話を戻す。

ネガティブなエネルギーを発している女性はなにをしていたのか?

おそらく、撮った写真はどこかへの証拠写真なのだろうと思った。

役所へとか、学校へとか。

その女性にとっての不要不急と、父子にとっての不要不急の定義が違う。

正義の種類が違う。

 

しかし、わたしが気になったのは、その女性のエネルギー。

繰り返しの転生でお馴染みになっているエネルギー。

ひとのうちの憎しみや、悲しみ、妬ましさなどに巣食うダークエナジーを感じたからだ。

そのかたの胸元からハラりと落ちた白いもの。

残り少ない白いエネルギーを手放してしまったのじゃないといいのだが。

これからの人生を怨念に導かれるように生き、堕ちた魂となり、転生もままならなくなる。

この世界、ある意味魂のふるい分けのような場所でもある。

 

ひとはネガティブエネルギーが多すぎると、思考のなかのイリュージョンのなかで生き続ける。
目は曇り、耳は聞こえず、ホントウが見えなくなっていく。

身体と魂は乖離し、そこにダークエナジーが入りこみ、コントロールする。

 

このところの世のなかの不安定さ。

本性が浮き彫りとなり、隠れてひとを操っていたダークエナジーも姿を現す。

 

さて、わたしはこのときだからこそ、内省の時間を多くしている。

 

年配の女性を介して、姿を現したダークエナジー。

それは、わたしの恐れとリンクするものでもあった。

 

意思を貫けば、多勢に無勢で叩かれることもある。

それはこの世界でも同じ。

 

見えざる力に頼り、操れば、古い時代なら火あぶりの刑。

どんな時代でも、ひとは自分の理解を超えるものは怖い。嫉妬の感情をもつこともある。

自分では当たり前の力、生まれながらの力であっても、他者には理解されにくい。
そして、迫害されることもあった。

ひとの憎悪が怖い。

迫害されることが怖い。

そのことでひとを憎み、自分のなかのネガティブなエネルギーに気づくことが怖かった。

 

魂の本質には、この惑星のために転生していると書き込まれているはずが、なぜ? 疎まれる?
現象と本質の最中で苦しむ。

 

その恐れは、今生でもひととなって現れた。

会社のなかで、逃げれない状況でそのシーンはやってきた。

逃げたくなかったというのが本音かもしれない。

 

この世界でおこること、学びと気づき、魂を成長させ、霊性を高めるためのレッスン。

 

過去生からの積み残し。

迫害による、恐れ、憎しみとの対面。

 

だが、以前は今ほど覚醒はしていなかったので、なにが起きているのかが分からなかった。

状況に溺れ、苦々しい感情に翻弄された。

 

そんなわけで、手放しがうまくいかず、経験と学びは繰り越し。続く。Continue。

 

雪の日。

過去生でも今生でもお馴染みのエネルギーを感じたことで、記憶が蘇る。

祈りと瞑想。そして内省。

様々な迫害シーンを思い出しながら、身体の感覚を感じ続ける。

 

胸のあたりに硬い塊を感じた。

両手でそれを取りだし、目の前に置いた。

それは、溶岩のようなゴツゴツした岩のようにみえる。

片手にのるほどの大きさ。そんなに大きくはない。

もちろんイメージのなかでだ。

 

わたしは、溶岩に語りかける。

過去生から続く「恐れ」のエネルギーが固まってできたもの。

 

 

スピリットからのメッセージ。

 

「魂が学びのために設定したエネルギー。ハートのチャクラをブロックしていた」

 

それを見つけ、手放すことも、魂の旅の目的のひとつ。

 

「恐れ」によって、自分を信じることができなかった。

「恐れ」によって、魂とつながり、その本質を生ききることができないでいた。

「恐れ」によって、大宇宙とのつながりを感じられないでいた。

 

ひとつ、ひとつと持ちつづけていたネガティブエネルギーを手放してみると、ハートのチャクラのエネルギーをせき止めていた「恐れ」という溶岩が現れた。

 

信じる。

それは、大宇宙へとつながる大きな道すじ。

 

ネガティブエネルギーに言葉をつけるなら多種多様だ。

恐れといっても、様々ある。

 

しかし、今回「恐れ」は、自分を信じられなくし、魂とのつながり、大宇宙とのつながりを希薄にするもの。

だから、ここでの対面と手放しはとても大きなことだった。

 

魂が転生を続ける意味。

魂の本質によって現象は様々。

ただ、どんな魂も経験と学び、気づきによって魂を成長させ、霊性を高める。

 

自分は地球を救うためにやってきた高潔な宇宙ソウルだから、特別!

そのサイクルは免除されている・・・はず!

 

ない、ない! それは、ない!

 

どんな魂であっても、大宇宙からするなら自分の分身であり、取りこぼしたくないもの。

 

可愛い子には旅をさせろ

獅子はわが子を千尋の谷に落とす

 

そもそも霊性の高い魂ならば、この世界での学びも濃くなる。

 

ふと、ディケンズ作「クリスマス・キャロル」の三人の幽霊を思いだした。

季節外れの雪の日にみた年配の女性とクリスマス・キャロルの主人公 スクルージ老人の姿が重なったのかもしれない。