ひとは何かになろうとする。
それは、輪廻転生の名残りなのだろう。
魂は学びのため、光を強く大きくするために、何度も転生を繰り返す。
多くの魂が幾度もひとなり、様々な人生を生きた。
ひとつの人生の記憶は魂に記され、終えることがなかった感情エネルギーは幽体へと保持され、課題(カルマ)として次の生へと持ちこされた。
前の生で成し得なかったなにか、解放できなかった感情、それを次の生で必死に得ようとする。
得られなかったなにかが積もり積もると、魂の段階も後半になると、得たかった「なにか」ではなく、なりたかった「誰か」と、意識が変わってくる。
望みが大きくなってくる。
そもそもの人格に、偽の人格がプラスされた状態だ。
魂の本質+正の人格+偽の人格。
魂段階の後半ともなれば、いくつの偽の人格が混ざりあっていることやら。
ありのままの自分、本来の自分、ほんとうの自分を生きている気がしないのは、もっともだ。
しかし、大宇宙へ光となって還るには、着込んだ鎧のような偽の人格をひとつひとつ脱いでいく必要がある。
魂の本質へ還るとは
ホントウの自分
ありのままの自分になるのは、
この後におよんで、「なにか」に「なろう」とするのではない。
「なにか」を「手に入れる」ことでもない。
輪廻転生のたびに作りあげてきた「自分」を「手放す」ことだ。
ネガティブエネルギーからなる「いま、ここ」にいない「偽の人格」を「解放」することだ。
いまが生きづらいのは、おそらく過去生から何度も作ってきた「自分」のエネルギー同士が錯綜しあっているせいもあるのだろうから。