幼い頃から、不思議な感覚があった。
私が同時に2人が存在しているような感覚だ。
肉体にいる私と、それを上の方から俯瞰して見ている私だ。
肉体の方の私はとても感情的で、目の前の現象の渦に巻き込まれ右往左往する。
その波動が低ければ、渦は激しさを増し翻弄され続ける。
平常心の時は、肉体にいる私と上にいる私は繋がっていて、コミュニケーションもスムーズだ。
でも、渦に巻き込まれている間は、上にいる私からのメッセージは聞こえてこない。
ただただ、渦の中でぐるぐるしながら、こころが痛かったり、辛かったり、体調が悪くなったりしていた。
肉体にいる私からは見えないが、上から俯瞰して見ている私は、すべてわかっている。
私が生まれる前にどんな約束をしてこの世に生を受けたのかを、魂にどんな記憶をもっているのかを。そして、常にメッセージを送り続け、肉体にいる私に「気づき」を促す。
だが、今まさに、苦しさ真っ只中の肉体にいる私は、そのメッセージには気づかない。
気づくどころか、そのこころや体におこった苦しさを回避するために、必要のない行動をしていた。
苦しさを誰かのせいにしたり、自分を攻撃してみたり、ドラマや舞台鑑賞、答えが欲しくて本を読む、ネットで不確かな情報を掴んでみたり、誰かに相談、旅行やショッピング、ランチやディナーでのおしゃべり・・・。回避の方法はさまざまだ。
回避は回避。いっときの「逃げ」なので、本当の意味で自分が楽になることはない。
それでも一瞬だけ、答えを見つけて楽になったような、こころの中が静かになったような気がすることもある。だがそれは、単にやることを後回しにしただけだった。
今となっては、結局は、上にいる私からのメッセージに耳を傾けるのが一番の近道、早道だということに気がついた。
では、聞こえてこない声を聴くにはどうすればいいのか?
確かに、その声が聞こえていれば、長々と苦しまずに済む。
一番てっとり早い道は、ざわつく感情に目を向け続けることだ。
苦しいこころを目をそらさずに見続けることだ。
ストレスを抱え、固まってしまった体の感覚を感じ続けることだ。
「辛い」「苦しい」を受け止め、その存在を認める。
「自分は今、辛いんだ。苦しんだ」と認め、受け容れる。
それができたなら、今度はざわついているこころの中の大嵐を、津波を、毛羽立ちを、落ち着かせ、凪させ、静かにさせる。
だが、これを自分でやろうと思うのは難しい。
途中で、辛くて苦しくて、逃げ出したくなるのが普通だろう。
だから、専門家に援助してもらったり、瞑想などを取り入れる必要がある。
私は、一歩進んで、三歩下がりながらでも感じ続けるという作業をしてきた。
そして、こころが凪に入ったとき、ようやく上からのメッセージが光のごとく降り注がれる。その声に耳を傾けたとき、「魂の道」が見え始め、必要なタイミングで出会う人、現象が動き出した。
上から俯瞰して見ている私は、さまざまなものに変化する。守護者であり、私の本質、真理である。
時にそれは、他者の姿や言葉を借りて、私にメッセージを送ってくる。
そういえば、あるサイキックヒーラーの講座を受講した時、こんなワークがあった。
まず、質問を考える。
次に外に出て、その質問に対する答えに気づく。
その答えは、通りすがりの人が話した言葉かもしれない。街中にある看板の絵かもしれない。歩道に落ちていたチラシの中にあるかもしれない。
答えは常に自分の中にある。ただただ、それに「気づき」さえすればいい。
自分の中の答えが、他者を介して、街中の風景に溶け込み、歌のワンフレーズとして、本の中の一行で、テレビドラマのワンシーンとしてメッセージが送られてくる。
だが、大概の人間は気づかない。なぜなら、悶々と思考という過去のデータベースを探し続け、エゴという幻想の自分が作りだした欲求に捕まっているからだ。