オールドソウル 釈迦に学ぶ コロナ禍に学ぶ

2020.11.18  Chikako Natsui
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先日のInstagramの投稿から、また、このところのこの世界のエネルギーのなかで感じることもあり、こんな言葉が湧き上がる。

 

正しさ
優しさ

・・・

 

ひとの世のこれらは、ひとそれぞれ定義が違う。

 

ある行動が、ひとによっては優しさだが、べつのひとにとっては大きなお世話になることもある。
また、魂にとっても課題の先送り、カルマの積み残しになることも。

 

ひとがひとを判定することや裁くことはできない。すべては大宇宙のエネルギーによって動かされている。

 

 

 

 

新型ウィルス

父の手術

 

わたしの外の世界のこと。だが、なにかしらの影響があるのには、どこかでわたしのエネルギーとシンクロしている。

そして、学ぶ必要のあるなにかがあるのだろう。

 

 

コロナ禍でもあり、春分の日とGWは実家へ帰らなかった。

未知なるウィルスに、少し不安と恐れがあった。

 

一方では、それに反発するうちなる声がある。

みえてること、聞こえてくる情報100%信用できるものではないのではないかと。

信用できないというより、わたしの魂はそれを喜んでいないといった方がいいだろうか。

世の中で正しいとされている情報や価値観は、ある一定数のひとにとっては正しいかもしれないからだ。

しかし、あるスピリットグループ、ある魂段階のスピリットが転生しひととなっている場合、そこに意味をなさないこともある。

 

わたしにとっての、新型コロナウィルスの意味。

医学的なことではなく、コロナ禍を経験する意味。この世界のエネルギーの変化を経験することは大いに意味があることだと思った。

「わたしにとっての意味」。そこに学びがある。

なにかコトが起きたとして、もたらされる結果は、ひとそれぞれだ。感じること、思うこと、考えるこは、様々だろう。

 

 

実家に帰れないいや、帰らないときが続いた。

この時世、うまくいかないことがあると、なんでもかんでもコロナのせいにしがちだが、実家に帰らないと決めたのはわたし。
強制的にとか、拘束されてとか、行動を制限されていた訳ではない。

世の中の空気や、「もし」という起きてもいないことを想像するというイリュージョンにハマり込み、若干の恐れと不安にかき立てられ、帰省はしないと決めた。

 

だが、6月になって父のことが心配ということもあり、帰省を決めた。

この頃、そのとき下りの高速バスのなかで浮かんだことを思い出す。

 

生きる

活きる

 

その違い。

 

すでに80歳を過ぎた父。あとどのくらいこの世でともに時間を過ごせるのだろう。

だが、いまは新型ウィルスとやらで高齢者への感染させないため、地方への帰省はしない。そんな流れになっている。

「万が一!」

いくつかの事例を挙げては、高齢者への感染リスクの怖さが連日報道されていた。

 

そんななかでの帰省。

そのときに浮かんだのが、上述した「いきる」の違いだった。

 

この世界には、様々な段階のスピリットがあり、影響し合っている。

経験すること

学ぶこと

行動はそれぞれだ。

 

生物として生きることを目的としたスピリットグループもあるだろう。

身体が意識の中心となり、心身の健康を保ち、衣食住・ひととひとのつながり・集団生活・集団のなかの自分を経験する。

また活きることを目的としたスピリットグループもあるだろう。

精神や霊的なことが意識の中心となり、今生での自分を通して、パラレルワールドの学びを深めていく。

どの段階の魂でも、ひととして転生してきた以上、心身魂のバランスと霊的なつながりは大事だ。

ただ、転生の課題はどこによって、意識のもっていき場所、生き方は違ってくる。

 

さて、わたしはといえば、生きるためだけにこの世界へ転生してきたのではない。

心身を健康に保ち生きることは当たり前のことであって、そこに固着し、恐れによってその他の活動ができない状態になるのは、魂は喜んでいない。

 

誰もわたしを拘束していない。

誰もわたしを閉じ込めていない。

 

わたし自身が、世間でいわれていることを恐れ、小さくなっているだけ。

勝手に自分を押さえつけて、閉じ込めているだけだった。

 

過去生での経験がネガティブエネルギーとなり、恐れを作り出した。

さらに、わたしのうちの恐れとこの世界に蔓延している恐れがシンクロし、大きくなっていたようにも思えた。

 

過度に恐れることはやめよう。

恐れは恐れを引き寄せ、必要以上に大きくなり不穏な結果を引き起こす。

それが、心身に影響をおよぼし、また違った病魔を運んでくる。

 

わたしは意味なく恐れることはやめた。

しかし、ひとと接する場合には、相手に合わせることも忘れない。

 

例えば、友人知人のなかには、大きな恐れを抱えていることもある。

そのひとに恐れなくていいよ〜といっても、無意味だろう。

なにをどう感じ、どう考えて、どう行動するかはひとそれぞれ。

先にもいったように、魂の学びはそれぞれだから。

 

過去の転生のいく度かは、自分と考えが違ったり、思想が違うことが許せなかった時代もあった。

それゆえに、戦いや革命に身を投じることがあった。

違いや不正義がまかりとおることが許せない。

冒頭に記載したが、正しさも正義もひとによって定義が違う

他国でのデモの様子が報道されると、なんとなく懐かしさを感じる。

 

わたしのエネルギーと様々なエネルギーがシンクロし、そして外の世界を創りだしている。

清なれば、清を引き寄せ、シンクロし、清が現れる。

濁なれば、濁を引き寄せ、シンクロし、濁が現れる。

 

輪廻転生を通し、それを経験し、学んでいる。

 

自分のエネルギーを変える。現象を変えるのではない。

 

 

 

 

 

ところで、ずいぶん前にこの本を買っていた。

 

「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ著

 

お釈迦さんが、覚醒するまでを描かれている。

 

別の本を読んでいて、その中に、シッダールタが「断食して、瞑想して、考えられるようになった」という記述があった。

そのフレーズに惹かれ、この本を読んでみたいと思った。

それから随分経ったが。

 

わたしにとって、今、この本が必要なのだと思った。

意識のうちと外の行き来が激しく、ともすれば、エネルギーが混乱しそうな今だからこそ、この本に学びがある。

お釈迦さん生き方に共感できる。

 

お釈迦さん=シッダールタ。

若い頃のシッダールタはさっさと自我をすて、覚醒したいと修行していた日々。

だが、どんな高僧であっても、導師とよばれるひとであっても、ひとは誰も自分を導くことはできない。自分が知りたい答えを与えてくれるひとはいないと理解した。

あえて、輪廻を経験するために、混沌とした人間界へ身を投じた。金も女も食も酒も、欲のままに手にした。

そうやってひとのうちにある欲を長い年月をかけて経験した。

ひととしてあることの意味、シッダールタは自分を経験した。

そんなところから話は展開していく。

情欲を知り、愛情を知り。しかしそれもまた夢・幻。

あえてシッダールタが導くことができたものがこの世界にあるとするなら、川の渡し守を生業としている学も富も持たぬ男と、川そのものだった。

 

 

小学生の頃だったと思う。

ヘルマン・ヘッセの車輪の下という本に興味をもった。

今思えば、なんとも気難しい子どもだったろう。その頃に哲学的なことに興味をもつとは。

しかし、一般的な小学生と自分の違いを受け入れられず、一般的な方に合わせたのだろう。

 

今でこそ多様性といわれる時代になったが、当時は老いた魂にとって子ども時代は、演じること以外自分を守る術がない。

高齢者が小・中学生を演じているようなものだから、とても奇妙だ。

 

いまの子どもたちの中にも、またこれから生まれてくる子どもたちの中にも、ある一定数のオールドソウルがいるだろう。

やる気がないような、達観しているような、子どもなのにやたら落ち着いているような、はたまた一見子どもっぽいが、どこかが奇妙な子ども。

子どもなんだから、子どもらしくしなさいとか。

子どもなんだから、子どもが興味もつものを・・と、言いたくなるが、実は、大きなお世話だったりする。

 

オールドソウルにとって、地球生活は補講の場合もある。

学びたいことにしか興味を示さないので、例えば、それが多数のひとからみれば変わっているとか、こっちの方が楽しいでしょとか、寂しいそうとか思えるようなことでも、逆にそっとしておいてもらった方がありがたい。

 

 

さて、話が錯綜したが、わたしにとってコロナ禍であれ、父の手術であれ、そこで感じたこと、考えたことはすべてが学びであり、幽界へつながるエネルギーの通路のひとつを見つける経験だ。

その過程でヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」は、迷い、悩みながらひとの道・霊の道へと歩を進める励ましのような一冊だった!