宇宙神子
ひとつ、ひとつ、囚われから地球を解放していこう。
やりたいこととやることは違う。
この世界で当たり前だった話、通説だったこと、人びとが憧れ、期待していること。
それを覆すような話だ。
ひと的意識は、この世界で生きていることは夢のようなもの。だったら夢物語はそのままにと思うが、そのままではいかないようだ。
大宇宙へと糺すエネルギーが強くなっている。
宿命とは、なにをどうにしたってそうなってしまうこと。
その道から外れるほどに、人生がつらくなる。
宇宙神子は、大宇宙の聖なるエネルギーから外れることは、狂った羅針盤をもち魂の旅をしているようなものだ。
この惑星で聖なる奉仕活動を行うには、光の兄弟姉妹はもちろん、高い次元に属するスピリットのサポートが不可欠だ。
しかし、このところ話題になるのが、小さな八百万や精霊たちの動きだ。
お行儀の悪い 小さな八百万。
ひとに大きく影響をしている。
ひとの欲、寂しさ、悲しみ、恐れ、妬み嫉みなどの情緒に巣喰い、支配する。
神なのに?
そう。神なのに。
この惑星にある小さな八百万は、人類と同じように進化途上にある。霊性が高まっていない。
ひとと小さな八百万は互いに影響をおよぼし合い、依存し合っている。
神だのみ、仏だのみ。
ひとのエネルギーが小さな八百万を動かす。そしてまた、そのエネルギーによってひとが動かされる。無意識に。
そこには、様々なスピリットのエネルギーが加わり、二重三重に影響し合って、現象となる。
ひとはひとりでは生きていないし、ひとの世界は異世界と重なり合って存在している。
人気の龍神。
役割によって分類され、様々な種類と霊格・霊性で表されている。
地中深く脈動を司る黒龍
天の使いともされる白い龍
水の化身といわれる龍
金・富を司る龍
・・・etc.
この世界は龍神だらけだ。
太古の昔。暴れ龍、毒龍などといわれ天界と歯向かう龍はことごとく退治された。
改心し、霊性を高める精進をした龍は龍神として、この世界で崇められている。しかしそれもまた道半ば、大宇宙への帰還・ワンネスへ向け、霊的世界で修行は続いている。
また改心のない龍は惑星へと閉じ込められ、封印された。
その役割を担っていないスピリットが、龍神の封印解除と目し儀式を行うのは、そのスピリットにとっては危険であり、地球の大スピリットにとっても進化・変容のスピードを遅らせることになる。
先述のとおり、小さな八百万はひとのエネルギーの影響を受け、現象を作りだす。
儀式をおこなったひとが多くのネガティブエネルギーを有するなら、その結果となる。
またそれを複数人数で執りおこなう場合、その場のエネルギーの総和が生じて現象をつくりだすため。代表者が白魔術でも参加者に複数黒魔術に支配されている魂があるなら、それ相応の現象が生じるだろう。
見えざるエネルギーに向かい働きかけるのには、中途半端な気持ちではやめた方がよい。
儀式に参加した時点で、その磁場を作りあげるひとつの構成要素になり、結果は等しく背負わなければらない。
それが天界へ、大宇宙へ背く行為ならば、幾世をかけ、魂で贖う必要もある。
興味や遊び半分。地球のためになんとかしたいという気持ちが情緒的なものだったり、恐れや悲しみ、苦しみなど有するネガティブエネルギーが大きけらば、跳ね返ってくるエネルギー量も大きくなる可能性がある。
無
0
ニュートラル
その状態を保ち、いかに人間的な部分を発動させないか。なにかのために、どうしたいとか思わない。
意味あって封印された龍神は、「そのとき」まで、地球の変容・解放のときまで待つ必要がある。
「そのとき」になれば、地球の大スピリットから要請を受け、そのミッションを果たすべくスピリットグループが訪れるだろう。
そして、「そのとき」は順次やってくる。
いたずらにそれをやるなら、地球に混乱した現象を招くだけだ。
ひとは神にあらず。
いまはまだうちなる神性をみつけ、育むときだ。
どうしてこのような話になったのだろう?
神に依存し、自由意志を手放しそうになっている人びと
神を真似し、他者を、この世界を支配する人びと。
どちらにせよ、闇のグループが人びとの幽体にあるネガティブエネルギーに入りこみ、コントロールしている。
ひとのエネルギーに反応する小さな八百万をけしかけている。
その結果のことだろう。
聖なる光に奉仕するグループは、ひと的世界の欲徳を叶えるための活動はしない。個人の輪廻のカルマに入ることはない。
カルマは魂の課題であり、ひととしてこの惑星へ、この世界へやったきた意味であり、目的だから、それを果たすためのサポートはしても代わりにすることない。
聖なるグループは、ものごとの現象ではなく、霊的な意味を解釈し、大宇宙の目的にそった解放に着手する。
だが、このところ、お行儀の悪い小さな八百万の影響をうけたスピリットが幽界で彷徨っている。
現界と霊界のはざま。聖なる光の道は見えず、どんどんと黒い道へ入りこんでいく。
それは、黒いエネルギーに支配された霊的能力者としてこの世界で動きだす。
おそらく、霊的進化がされていない普通のひとからするなら、霊的世界やスピリチュアルな世界というと、同じ意味合いで受けとるのではないだろうか。見えない世界、聞こえない世界、知らない世界という意味で。
確かに霊的視力や聴力が発達していないと、幽霊も天使も同じように思える。悪霊もご先祖様も一緒の場所。
そうではない。
コンタクトする側のエネルギーの純粋さと霊性によって、見える・聞こえる「先」は違ってくる。
見える・聞こえるひとが、自分のエネルギーを混濁したまま活動を続けていれば、つながる先は確実に「幽界」だ。
見える世界と見えざる世界の狭間には、ひと的意識では理解しにくいスピリットが活動している。
白もあって黒もある。善もあって悪もある。
どっちがでるかは、スピリットのエネルギーによって違ってくる。
引き寄せ。
それは、お行儀の悪い八百万かもしれない。神になりたかった傲慢な眷属(神使)かもしれない。
そうそう、高位の神界から遣わされし大きな八百万が懸念しているのは、神の名を語る眷属たち。
ひとや場所、モノに憑き、小さく・大きく惑星をひっかき回す。
眷属とは?
眷属神としての「眷属」は、本来、神の使者をいう。多くはその神と関連する動物(想像上の動物を含む)。動物の姿を持つ、または、動物にみえる、超自然的な存在を意味することもある。日本の神道における例としては、蛇や狐、龍など。神に代わって神の意志を伝えるなどする、神使とよばれる。神と同様に人間を越える力を持つため、「眷属神」とされ、眷属神を祀る神社もある。
眷属は神使。高い次元のスピリットではない。
しかし、なかには勘違いをすることも。神のごとく振る舞い、人びとの私利私欲的な願いを聞き入れる。
繰り返すが、霊性が高まるほどにこの世界のカルマから離れていくことになる。ゆえに、自分の力を見せびらかし、他を支配せんがための動きは、大宇宙の聖なる法を侵すことなのだ。
だが、霊性の低い眷属はひとや家、場所に憑き、それをやる。
ひとの欲が眷属を邪に至らしめたのか、はたまた、眷属がひとの欲を書き立てたのか? そこは持ちつ持たれつ、なーなーの関係。
邪には邪。聖には聖。引き寄せだ。
間違ってはいけない。
眷属は神使。高位の神ではない。分を忘れ、ひとをたぶらかし、もて遊ぼうとするなら、遠くに追いやらなければならない。
龍神も同じこと。
霊性の高め進化している龍神もあれば、堕落した昔神使の龍もある。エネルギーがまったく違うので、よくよく気づきたい。
変なエネルギーを感じたら、嘘っぽいエネルギーを感じたらなら、「お前誰だよ!?」と祓い除けよう!
龍神の名を語る、堕龍かもしれないから。
このところ吹き荒れるスサノオのエネルギーは、それを祓い始めたように思える。
聖なる光の世界への入り口は、本来神聖なはずだったのだが、激しく穢されている。
人びとの魂が大宇宙へと還るには、そこを通過するのだが、狭き門がさらに狭くなりそうだ。
ひとは動物であり、神である。両方の特性を併せもつ存在だ。
幾度もの転生を繰り返し、意識を進化・拡大させながら、動物からひとへ、そしてうちなる神性に気づき、やがては大宇宙=唯一神へと統合されていく。
食欲・性欲が旺盛で、自分の安全確保に余念がなかった動物人間が、知性を獲得し、ひとへと変貌した。社会のなかで同種同類と共存しながら生きていく。やがて直観を通して、どうやら目の前に見える世界だけが自分の世界ではないことに気づきだす。
魂からのエネルギーが流れ始め頃だ。霊的な存在である自分を理解し、同種同類への奉仕が始まる。
その過程で、異種異界に気づく。外なる神を見、うちなる神に気づき、対話が始まる。
自分に向き合うとは、他でもない。うちなる神との対話だ。
そして、そのうちなる神とは、大宇宙へと通じる扉なのだ。
いずれは、どんなスピリットも大宇宙へと還っていく・・・予定だ。
道中のあることないことは、それぞれだが。
そのときは、この惑星に棲まう龍神たちとはお別れしなくてはならない。
いずれは惑星を支配するすべての龍を超えるときがやってくる。
気をつけなければならないのは、龍の力で利欲を購っていると霊性が高まらない。
龍だけではない。堕落した眷属の力でひと的欲を埋めたり、他者の課題を妨害するならば、そのスピリットの霊的進化はされない。逆に天の怒りを被り、スピリットグループが何代にわたり、そのツケを払うことになるかもしれない。
ひと的意識と魂的欲求が重なり合わない段階では、よくよく気をつけたい。
やりたいこととやることは違うことが往々にしてある。
分をまもる。
ひととして転生したスピリットは、ひととしての経験のなかで魂を成長させていく。
動物として、自然界に、神として、眷属としてあるスピリットは、属する世界で学び、進化する。
界を超え、分を忘れることは、大宇宙の法を侵すことになる。
また逆に魂の宿命にも関わらず、その道にいかぬなら、これもまた大宇宙との約束を違えることになる。