先日訪れた芝大神宮の帰りみち、ゆきずりの縁があった。
そこが定位置なのかは分からないが、占いを生業とされているのか、はたまた修行のためにされているのか、年配の方に呼び止められた。
適当にお愛想して、行き過ぎようとしたが、その日は、なにかひっかかるものがあったのか、立ち止まった。
最初に聞いた値段で渋っていると、最終的には500円でみてもらうことなった。
名前、生年月日、手相、人相。
名前をみた瞬間に、「なにを決めてきたのか?」と聞かれた。
「そのために、いま、していることは?」
誰かに言葉にだして説明していると、なんだかスピリットガイドとわたしの仕事のすり合わせのような感覚になった。
そして、手相へと話題が変わる。
手首の方から中指へとまっすぐに延びた運命線、手のひら真ん中にある神秘の十字、生命線から運命線へと飛びだした支線。
占いの方は驚きながら、いろいろと解説をしてくれた。
中指は自分自身を表しているという。神秘の十字をみては、コアがしっかりとしている。生命線から飛びだした線をみて、「旅」についてなど、その内容は、わたし自身のいまの生き方がそのまま反映されているようだった。
旅。
ワンダラー。
惑星を旅し続けている宇宙の放浪者。
魂が覚えている。そして、導く。
結局、そうなっちゃう。
さて、いい気分で午後の予定へと向かう。
いい気分・・・
そう。いい気分。
わたしのなかの少し厳しめの意識が語りだす。
「いい気になってんじゃねーよ」
オールドソウルは、自分のうちに審神者(サニワ)をもつ。
この世界を生きるほとんどのひとは、霊能は閉ざされている。それは、この世界を生きやすくするため、魂が設定した課題をこなしやすくするためだ。
だが、魂の本質によって多次元、異次元、異界へとつながりやすいひともいる。
生れながらにその性質だったり、あとからその力を身につけたという場合もある。
どちらにしても、見せられる、聞かせられる、つながるのは、ひととしての波動や霊界における魂の位置が大いに関係する。
霊的能力があるからといって、高次元へとつながっているとは限らない。もしかすると幽界へ導かれている可能性もある。
見せらた情報は100%鵜呑みにするのではなく、疑ってかかることも大切な役割だ。
また「神」という言葉はとてもパワフルだ。どれだけその言葉に影響をうけ、人心がコントロールされてきたことか。
「神」とつながる場合には、常に用心深くある必要がある。
なぜなら、「神」の周辺には、救いを求めるいわく付きの霊体がウロついている。
神に呼ばれた!と思ってみたら、実は、周辺にいるひとを化かす波動の低い霊体かもしれない。
そのために、審神者(サニワ)が必要なのだ。
これは、本当に「神」なのか? それとも化かされているのだろうか?
わたしも全身全霊、全感覚をもって、感応したことをチェックする。内なる意識、複数のスピリットガイドと様々なやりとりをする。
わかりやすいように「神」という表現をしているが、高い次元のエネルギー体として捉えてもいい。
さて、わたしの内なる意識のひとつが「いい気になってんじゃねーよ」という。
傲慢になりそうなとき、視野が狭くなっているとき、魂から乖離しそうなときに現れるガイドだ。
少し良いこと言われて、いい気になるということは、別な見方をするなら、なにか自信のないことがあったり、認めたくないこと、不安なことを、他者からの賞賛や承認によって、いい気分を味わい、それで埋めようとしていた。
そして、また気づいた。
これがスピリチュアルショッピングを繰り返すきっかけなのかもしれないと。
「いい気分」を味わいたい。
過去生から恐れを抱えて生きる魂は、外からの刺激に弱い。変化をとても苦手とする。
魂では、変容したい、アセンションしたい、そのために変わりたい、魂を生きたいと望んでいても、これまでの傷が悲しみや苦しみ、感情エネルギーとなって今生の自分へと大きく覆いかぶさる。
そのため、自分が行動を起こさなくても、変化・変容しなくても、変わった風に思い込める何かを探す。
「いい気分」にしてくれる「なにか」を探す。
おそらく、その場合、ひと的意識では変化・変容は望んではいないのだろうと思う。
霊的なことに憧れはあっても、古傷が痛すぎて、自分自身で霊的成長を阻んでしまう。
ならば、地球が大変容を始めたいま、その魂はどうすればいい?
次元上昇をした地球に振り落とされるのだろうか?
占いでも、カウンセリングでも、セラピーでも、どんなに「いいこと」をいわれて、「いい気分」になったとしても、その先に「行動」がなければ現象はなにも変わらない。自分も変わらない。
行動することを大層難しく考える必要はない。
なにかを勉強しなくちゃとか、お金を貯めなきゃとか、そういうことでもない。
とても簡単なことから始められる。
朝、窓を開けて空気を入れ替えるとか、体のマッサージから始めるとか、観葉植物に水をやるとか、これまで気にかけてこなかった生活のパターンを少し変えてみたり、自然な行動をひとつ加えてみることだ。
「あなたは地球を救う使命があります!」と、言われたとしても、自分を救えないのなら、他者は救えず、さらに地球ってのは大きすぎて無理だろう。
自分に自信がなければないほど、大きなことに憧れる。日々の生活が面白くなければないほど、宇宙に憧れ、魂の本質と乖離していく。
先の先の目的やゴールを見据えたか、他者に憧れたか、それが頭の中に浮かんだのではないだろうか。
そのパターンは、途中で頓挫するように思う。
なぜなら、いまの自分で選ぶことと、3年後の自分が選ぶことは違う可能性がある。
霊的な道を歩み始めると、少なからずアセンションしていく。波動やエネルギーが変わってくる。
いまの波動で選ぶものと、3年後に興味をもつものは違うことが大いに考えられる。
引き寄せも違うから。低い波動で選んだものに執着して、そこから一歩も動けない、動きたくない状態になるかもしれない。
この世界は無常。
目的やゴールは変わっていい。変えていい。変わらないことの方が宇宙の法則に沿っていないのではないだろうか。
もちろん設定として、一生この仕事をやり抜きます!という魂もあるだろう。
それは、その魂の課題がその仕事をずーっと続けることにあるからだ。
行動、活動とは、日常のなかから見つけ、スパイスを付け足し、形を変えて、一歩一歩進んでいく。
そうするなら、誰でも多少なりとも、変化・変容のきっかけを掴むことができる。
ただし!
魂の設定によって、緩やかな変容と急激な変容、それぞれ違う。
友人が急激に変容したとしても、自分の魂が緩やかな変容の設定をしているのなら、それは比較しても、焦ってもしようがない。
それぞれが魂を生きるようになっているのだから。
さて、わたしのうちなる審神者(サニワ)は、わたし自身への戒めと、そこから大切なことに気づかせてくれた。