過去生。
魂の成長の学び。
様々な戦い、革命を経験した。
自分の外に敵ををつくり、戦ってきた。
それが魂にエネルギーとして残った。
過去生の記憶。
だが、そのままでは魂は成長しない。
大宇宙への帰還、ワンネスへはほど遠い。
波動の重いエネルギーを有した魂はアセンションしない。大宇宙と同じ周波数にならない。
そこで、重苦しいエネルギー、ひと的ないい方ならネガティブエネルギーをあえて幽体に保持し、解放するためにひととなり、この世界に転生した。
そのため、人生前半では過去生のエネルギーが大きく影響する。
好きなこと、嫌いなこと、興味あること、苦手なこと、ついやってしまうこと、つい行ってしまうところなど、無意識が感情をコントロールし、行動させる。
そんなことをやるつもりはなかったけど・・・・が、結局やってしまう。
過去の清算をしているので、大概が結果的にうまくいかない。
「結局また、このパターンか〜」と、なる。
変だ変だと思いつつ、行きたくない行きたくないと思いつつ、今度は絶対間違いたくない!と、思いつつ、やっぱりそっちの方向にいっちゃう。そうなっちゃう。
これが結果オーライ!なら、導かれた〜とか、守られてる〜とか、言いたくなるけど、結果がいまひとつ、ダメダメなら、自分を責めて、誰かを責めて、罪悪感をもって、落ち込んで、やっぱりわたしなんてダメだ〜、生きている価値がない。生まれてこなければ良かった。などと思うかもしれない。
人生前半は、ある意味、前の生から引き続いて課題をやっているようなものなので、前世がつらかった、課題が終わらなくて人生を終えた魂は、前世の苦しかった・辛かったエネルギーを次の人生でも再体験している。
さて、わたしはといえば、過去生では戦い、革命的な生き方をしたときの取り残した課題があったようだ。
「神のなのもとに〜」的に、自分の外に的をつくって、戦を仕掛けた。革命に参加した。
それが今世にも影響をおよぼし、革新的な事柄に参加することが多かった。
しかし、組織のなかでは一個人の意見がとおらないこともある。
理想だ、理念だと意見をぶつけて、なぜか闘いの様相を帯びたこともあったが、いま思えば、それもまた「過去生からのクセ」だったのではないか。
上司や決定権のあるひとを、過去での権力者にみたて、闘いを再体験した。その時の苦しさや悲しさをもう一度しっかり体験して、手放すために。
案外、上司は過去生でも同じように権力者としてわたしの前にいた魂なのかもしれない。
お互い積み残しの積年のカルマを解消するために、今生でも上司と部下として生まれた。
リーディングしたことはないが、いま、ここでそれを書いているということは、そうなのだろう。
それが、ネガティブエネルギーを解放することで、積み残しの課題(カルマ)が消えていった。
そうすると、敵は外にあるものとばかり思って生きてきたが、それらはすべて自分の影であり、闇の創造物だった。
敵は外ではない。内側にいた。
いや、敵ではない。それはすべて自分のもの。
見えていなかった、抑えつづけていた、蓋をして鍵を何重にもかけて見えないようしてきた辛かったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、恐かったことが肥大したエネルギーとなったものだった。
抑えこむことができないほどに大きくなったエネルギーは、鍵を壊し、扉をけやぶり、外へと溢れ出た。
他者という形、事象、現象として、目の前に現れた。
ネガティブエネルギー源がなくなると、苦しい、悲しいなどの現象もなくなる。
もちろん、嫌いなひと、苦手なひとなどの他者となって現れることもない。
アセンションが進むほどに、ネガティブエネルギー源からの供給もなくなり、ひととしての憂いが無くなる。
内なる闇、自分の影に怯えるがために、ひとは外に敵をつくり、戦いあう。
それが、いまもなおこの世界のどこかで続いている。
戦争だけの話ではない。
勝った負けた、どこよりも、誰よりも優位に立ちたい。蹴落としてまでも生き残りたい。
戦う相手、競争する相手がいないと自分の存在が理解できない。
外の敵と戦うのではない。
内にあるネガティブエネルギーを解放し、調和していけばいい。
それはやがては外との調和へとつながる。
他者を扇動し革命を起こすことは勇気でもなんでもない。
内なる革命の勇気を、内なる改革の勇気をもてばいい。
それが、この世界の変容につながる。
他者を恐れや教義でしばることは親切でも愛でもない。
内なる恐れを手放し、自由を味わえばいい。
それが、この世界の自由へとつながるから。
惑星のアセンションへとつながるから。