わたしはわたしを諦めない!

2019.12.10  Chikako Natsui
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自分を諦めない

 

どんな方向にでも、変化したい、変容したいなら、これはとても大事なことだ。

 

魂は常に変容をうながしているが、人間意識がそれを阻むことが往々にしてある。

 

でも、くじけても、くじけても、もうダメだ〜と一瞬思ってみても、やっぱり「自分を諦めない」ことが大事。

結局のところ、この人生が終わるまで最後まで自分に寄り添うのは自分自身だから。

だったら、自分に優しくて、愛して、ときには叱咤激励して、ときには甘やかして、転んでも、立ち止まっても、自分が自分と一緒にい続ける。

自分が自分を見放した段階で、魂の成長は止まり、もしかしたら命さえ消えてしまうかもしれない。

 

昨日、Instagramに文字をつらつら書いていて、そんなことが浮かんだ。

 

いまでこそ自分を理解すれば、様々なスピリットがわたしの中に入ってくる。自分の意見だと思っていたことが、実は他者の思いをコピーして話をしていたことが何度あっただろう。

相手はびっくり!

そして、自分の話を聞いてくれて、よくわかってくれるひとだ〜と思われたり、同じ意見のひとがいて嬉しいと思われていたり。

そのときのわたしは、自分が目の前のひとと同意見や同じ思いをもっているものだと思っていたが、自分のうちになんとなくの気まずさがあった。

まさかそれが、エンパス体質、ワンネス体質、シャーマン体質、霊的体質!
どんな表現が適切なのか分からないが、そういった体質とは思いもよらなかった。

これがもう少し地球のアセンションが進めば、だんだんとこういった体質のひとも増えてくるだろう。

まだいまは、時期尚早のようだ。

さらにいまは、ひとのエネルギーだけではなく、スピリットや異界のエネルギーを感じたり、場合によってはそのエネルギーらがわたしのなかに入り、とうとうと話をさせられることもある。

 

昨日、Instagramに書いたのは、あれこれ他のエネルギーを感じたり、入り込まれたりして、よく正気でいられたものだ!という内容だ。

見た目的には分からないと思うが、小さい頃から頭のなかで複数人と会話がされている。

会話しているひとたち

それを監視しているひと

そうそう、わたしのなかから脱線しないように監視しているひとがいなければ、社会的には病気ということになっていたのかもしれない。

ずっとこの状態なので、いやとか疲れるとか、その意識もない。
仕事はマルチタスク的にできるので、案外それは助かった。

しかし、誰かが常に話をしているから、集中することが難しいということがある。

そして、わたしは、自分がなにかの拍子に正気を失うことを恐れていた。

 

ただ、魂は知っていた。

このままの状態では魂の本質を生きることは難しいことを。

 

そんなわけで、案外、結構、お気楽、のんびり、適当、ほどほど、のんきに生きていたわたしも、20代後半くらいからは、仕事という場で試練が与えられ始めた。

これがストレスってものなんだ〜と体感したのは、30歳少し前くらい。

それまでは感じていたことと言葉リンクせずに、風邪をひいたり軽く体調を崩すことが多かった。でも、とことん頑張らないので、大きな病気をしたことはなく、風邪程度でいつも済んでいた。

自分というものが分からないその頃と、いまを比べてみれば、いまの方がとても健康だ。

そこまでは悩みといえば、仕事の内容だった。

その時代までは結構強気だったので、人間関係で悩むということは無かった。

 

だが、しかし! 魂はそうは問屋がおろさない!

ここは地球! 魂の学びの場!

 

30代になると、今度はマネージメントというものが仕事に加わってきた。

そして、わたしの影とのご対面。

それまでの人生でも出会っていたのだろうが、案外、結構、やっぱり能天気の楽天家だったから、影を影と思わなかったのだろう。

楽しいこと、気持ちよいこと、素敵なことにしか目がいかなかったので、闇やら影やらがあるなんて、まったく知らなかった。

 

影だからね・・・

そうそうすぐには思い通りにはいかないよね・・・

しかも、当時は自分の影なんて思ってもいなかったから、「いやっ!」という感情しかなかった。消えてなくなればいい〜と思っていた。

でも、仕事だからそうもいかず、「なんなんだ!?」「まったく意味不明!」と思って、学びが始まった。

 

それが、いまから14〜5年前くらいになるかな〜。

そのあたりから、キャリアカウンセリング、心理カウンセリング、産業カウンセリングと学び、資格をとり、その他にもいくつか療法を学んだり、資格をとったりした。

でも、思考での理解は、あくまでも机上でのこと。

いろんなことを学んでも、自分のこころを救うこと、感情エネルギーを解放することはできなかった。

 

理論の土台ができた頃、母が亡くなった。

それが2010年のこと。

今度は、学んだ理論を自分がクライアントとなって経験するフェーズにはいった。

 

魂の学びは本当によく出来てるって思った。今でこそね。

 

母との関係、死の恐怖・・自分自身と向き合うこと。3年〜4年くらいはセッションやワークショップでやっていたかな。

うち3年くらいは、毎月2日〜4日。他の方のワークをみても、自分の内が動くから、かなり、とっても、深く、深ーく、濃い時間を過ごしていた。

セラピストやファシリーテーにサポートされながら行っていたワークは、だんだんと自分でもできるようになっていって、今度は自分自身がやるお話をお聴きする側になっていた。

それが、2013年のこと!

 

そこから、チャクラに興味をもって、講座で学び、セッションを受け、そのご縁で、宇宙だのガイドだのと、いわゆる「うえ」の存在へと導かれていった・・・。

それが、うーんと2014年くらいからかな。

 

ずーっとずっと、自分自身を見続けている。

感情の動き、体の感覚、快・不快。

わたしは「いま」なにを感じているのかを、意識続ける。

 

この世界が魂の学びの場である以上、短時間で劇的に変容することはない。

ちょっとの変化があるかもしれないが、魂が瞬時に大きく光を放つことは難しい。

辛く、悲しい。それをなんとかしたいという場合、やり方が分からないと、現象だけを変えようとする。横に置いてあったものを縦にする的なやり方だ。

それだと霊的な成長にはつながりにくい。

またソウルプランを無視した方法でのネガティブエネルギーの解放は、課題を先送りするだけで、やはり魂はうんともすんともならず、次の扉は開かない。

 

例えば、アセンション=幸せな世界という幻想をもつと、アセンションを「目的」を設定してしまい、その過程をエスケープしがちだ。

魂はその過程を経験し、学ぶことを望んでいるのだが、人間的意識が魂の声を無視する。

設定した課題は終わるまで、再三繰り返し現れる。

わたしにとっての「死の課題」がまさにそうだ。

なんだか周囲に亡くなるひと多いよね〜となる。

「死の課題」「死への恐怖」に向き合うために、よく亡くなる親戚のなかに生まれたり、早死にしそうな上司や友達を縁をつなぐ。

 

わたしは死が怖かった。常に隣にあったから。

怖くないふりをしても、抑圧された感情は強いエネルギーを発し、現象となって目の前に現れる。

死。

 

だから、いろんな場面で死を向き合ってきた。

死がもたらす恐怖という感情エネルギーを手放すまで。

 

死はとてつもないエネルギーを発する。

それは、とても魅力的だ。

死と再生。

リスタート、次への扉。

ひとの無意識はそれを知っているからだろう。

怖い怖いといいながら、無意識はそっちに引き寄せられる。

 

意識では怖いと思いながら、過去生からの影響で無意識に「死」に引き寄せられていたわたしは、無理矢理にでも、この世界に留まることを選んだ。

死と向き合うことで。

 

いまは、アセンションとはひとつの死の形なのだと思っている。

大きな変容をともなうとき、これまでの価値観は手放さざるおえなくなる。
場合によっては、仕事や人間関係も変わってしまう。
新しい自分を受け容れ、ともに歩んでいくのだという勇気が必要だ。

そんなときも、どんなときも、わたしはわたしと共にある。

歩幅を合わせ、共に歩き、じーっとわたしを見続ける。

過去を掘り起こして、無理やり何かを変えることはしない。

なにか過去にあったにせよ、「いま」のわたしの「感覚」がそれを問題にしていないなら、スルーする。

あくまで、「いま」「感覚」がキャッチし、表現したがっていることに焦点を当てる。

 

先述のとおり、わたしは同時に様々なスピリットを感知し、場合によっては受け容れることもある。

それが魂の本質だから。

しかし、人間でもある。

なにかのきっかけで正気を失うことがとても怖かった。スピリチュアルの学びに入るまでは、ちょくちょくそういうことがあったからだ。

そのラインを超えたら、わたしは、もうこの世界には戻ってこれない。
その一方で、ラインを超えろことが必要なのではないか?という想いもあった。

 

心理学から始まった学び。

順当に無理なくわたしを目醒めへと導かれた。

理論を学び、感情の手放しという実践、そして、スピリチュアルの世界へ。
頭での理解は、体感へ、自分軸がしっかりと出来上がった頃、霊的世界へと入っていった。

自分軸がない状態で、あっちのスピリット、こっちのスピリット、となっていたら、他のエネルギーによって翻弄、混乱、正気を失っていたかもしれない。

理論的にも体験的、体感的にも土台、基礎がしっかりと作られたから、「いま」がある。

アセンションが進み、霊的世界で生きることが多くなると、学んだこと、取り入れたこと、思考的なことは手放すようになっていく。

この世界の知識はだんだんと必要なくなってきて、「わたし」が「在れ」ばいい。

高次元は物質のない世界。エネルギーの世界なので、形あるモノは必要ない。

最初は療法やスキルを気にしていたカウンセリングも、プレゼンスを大事に傾聴することに変わっていき、いまでは、わたし自身のエネルギーを純粋にすることで、より高次元なエネルギーを交流・循環させることができると思っている。

 

この世界へ生まれた意味は、魂をマスターするため。

わたしはわたしを諦めない。

わたしはわたしを見捨てることなく、共に歩んでいく。