出会いは、魂と魂の約束ごと。
大宇宙の采配で八百万がつなぐ。
その魂が縁がある地を守る自然の中の神々。
大きく広く、世界中の神々や精霊たちも含まれる。
神というと、特定の宗教をもたない日本人は敬遠しがちだが、自然エネルギーであり、大宇宙を構成する神界のエネルギーをいう。
それは様々な形で現れる。
セッションなどでもよく、「産土神社へお参りしてください」とか、「あの神社がいいですね」とか、「あの神様が・・」という話をさせられることがある。
言われた方からするなら、わたしの思いつきのように聴こえるかもしれないが、殆どがガイドから言わせられている。
スピリットガイドや八百万は、それを伝えたくて、縁をつないでいる。
日本の八百万の神だけではなくて、仏教的なエネルギーやキリスト的なエネルギーを感じることもある。
ケースは様々。
その魂が神仏に仕える魂である
今生も含め、輪廻転生でその魂が経験したことがエネルギーとなって現れる
ご家族が宗教的なことに関わっている
ご自身が特定の信仰をもっていないくても、亡くなったお祖母さんがキリスト教を信仰していたとか、おばさんが、お母さんがと、何かしらの教義を熱心に学ばれていると、そのエネルギーがコピーされて現れることがある。
ご自身は宗教にはまったく興味がない!という場合でも、その家族を選んで生まれてきたということは、そもそも魂が神に仕えるだったり、過去生から続く自罰的ななにかを手放すためということがある。
過去生から自分を罰しつづけている魂は、奉仕的な仕事を選びがちだったり、女性ならば、女性機能にトラブルを抱えやすかったり、異性関係がうまくいかないなどの現象として現れることが多い。
神の愛 大宇宙からの愛の受けとり拒否!
意識的には「幸せになりたい!」と思っているが、過去生から続く自罰エネルギーによって、「わたしは幸せになってはいけない。神さまに罰せられて当然だ」と無意識にもちつづけている。
それが、幽界にあるネガティブエネルギー。
神は罰さない!・・・が、内なる闇が自分にとって悪しき結果を招くと、それが、「バチが当たった〜」となる。
八百万、自然の中の神々は、過去生だ〜 教義だ〜 なんだ〜 かんだ〜の枠を取りはらって、その魂を癒し、浄化し、調和へと導く。
また、お役を与えることもある。
「あっちの神社へ行って、そのエネルギーをもちながら、こっちの神社へ行く!」
神社によっては大宇宙とつながるためのエネルギーポイントのお役がある。
例えば、富士山頂にある神社におりてくるエネルギーと街中の神社のエネルギーは違う。
そもそもお役が違うので、エネルギーの大きさや量ももちろん違う。
地方に比べれば、首都圏は山河、自然が少ない。周波数が低くなっている。
土地は開発、整備され、土のうえにはコンクリートが覆いかぶさっている。川の流れは変えられ、ときに塞がれ、山はけずりとられ、宅地になる。海は埋立てられ、ビルが立ち尽くす。
ひとの便利な生活が優先された土地開発。
いたしかたないこととはいえ、街中でその地を守護する神エネルギーは小さくなっていく。
その地になにがあったのか分からないが、禍々しい事件でもおきたのだろうか?
その影響を受けてなのか、小さな神さまたちも禍々しくなっていく。
神さまなのに?
なにかに取り憑かれたような、呪いがかけられたのか?と思うほどの暗いエネルギーを発している神社を見たことはないだろうか?
なにがそうさせたのかは分からないが、そもそもの神力が封じ込められてしまっている。
ひとはご利益や願掛けのために、神社を訪れることが多い。
しかし、その神社やお社、祠ができたのは、その昔、川の氾濫を神の怒りと思った土地の人々が、それを鎮めるためだったり、山の神の大きなエネルギーを鎮めるためのこともあった。
時間が経つにつれ、曰くや由緒は消えたり、変えられたり、後の世の人々によって神社やお社、祠の場所は移動されたり、壊されたりしていった。
ところで、たまに八百万からのお役を伝えさせらる方がいる。
神社仏閣がそもそも好きで、神域が安心するとか、教会のエネルギーが好きでとか、仏像が好きとかの方ならいざ知らず、いきなり、「あの神社に・・・」といわれても、キョトンとするばかりだと思う。
神社に行くのは、初詣くらいで、幸せになりたいです!ってお願いごとをするために行くのなら、なおさらそうだろう。
神さまはひとの願いを叶えてくれるのではないの?と、思うかもしれない。
また、小さい頃から不遇だったりするなら、神さまのためにも、誰のためにも、行動するのは嫌!誰かに指図されたりするのは大嫌い!と、思うかもしれない。
行くも行かないも、ご自身の判断でいい。
これまでの経験から、伝えさせてもらったけど、ネガティブエネルギーが重すぎて、神社には行けないのではないかな〜と思うことも度々ある。
魂は高次元のエネルギーを求めている。救われたいと思っている。だが、人間的意識が「そんなとこ行ったって」と、それを阻む。
そもそも神さまは、人間のために何かをしてくれることはない。
動くのはひと。直観をうけ、それによって動く。
神意を受け、手足となって働くひとが必要だ。
魂がひととなり、輪廻転生を繰り返しながら、様々な経験をしていく。
その過程で、自分のうちにある神性、仏性に気づく。
魂は神や仏の分け御魂。ならば、その魂をいただく我らは神や仏の一部である。
ひとは、魂が成長していくことで、神界のエネルギーにふれることができる。
なぜなら、高次元の階層のうえのほうには神界がある。
※ここでは簡単に紹介しています。もっと詳細な階層に分かれています。
神界
霊界
幽界
現界(物質界・人間界)
ひとの魂の多くは霊界にある。
そこは細かい階層に分かれている。
魂年齢と役割によって、霊性が高い魂もあれば、低い魂もある。
因果応報が凄まじく、もしかすると、幽界に落ちている魂もあるかもしれない。
霊的な修行を重ねていくことで、魂の位置は変わってくる。
その修行の場、トレーニングセンターが「この次元のこの地球」。
魂に書き込んできた課題をこなしていくことで、霊性が高まっていく。
それは人間的行いでは評価されるものではない。
さて、ネガティブエネルギーが軽くなってきたら、誰もがチャクラ・オーラを介して霊界にある魂へつながることができる。
カルマもほとんどなくなり、霊性の高い魂ならば、神界へとつながることもできる。
「神社へ行け!」というは、霊的修行のように思う。
自分のエネルギーフィールドの浄化
神エネルギーの交流はもちろんのこと、
直観に耳を傾けるか
信じられるか
真性に気づけるか
内なる神や仏と出会えるかどうかが試される。
それが、ネガティブエネルギーを多く抱えていると、メッセージは信じられないし、逆に自分は神に選ばれしもの! 神さまの御用を果たせばいいことがあるに違いない!などと傲慢に考えてしまうケースもある。
エゴ丸出しで、カルマを重ねるだけになる。
神仏に手を合わせ、祈るとは、
すなわち、自分自身の内なる神や仏と出会うこと。
神仏を信じるとは、
すなわち、己自身を信じること。
それが試されているように思う。