瞑想中? 睡眠中? 意識と変性意識をいったり来たりのときだった・・・。
まもなく寝入ってしまうかもしれないという狭間の時間。
身体全身に強いエネルギーを感じ、意識が次元を超えたのが分かった。
はて? どの次元に行ったのだろうか?
いつもと同じ・・かな? と、思った瞬間・・・
「宇宙界」
メッセージが鳴り響く。
人間界にある意識では、「宇宙界? どこだそれ?」と思う。
宇宙って単語はもちろん知っているけど、はて? 宇宙界という「界」があったんだ。
霊界にあるスピリットがメッセージをもたらす時は、言葉の場合もあるが、形となって現れることも多い。
しかし、「宇宙界」からのメッセージは、光というか。なんというか、形にはなっていない。
次のメッセージ。
「魂が宇宙界へ還って来た」
その直後、身体をまた強いエネルギーが流れる。
頭頂のチャクラが痛いくらいに圧迫される。
魂が宇宙界を漂っているのか・・・?
なぜかわたしは両手を上にあげた姿勢で寝転がった状態のままだった。
その手の先がビリビリと電気が走ったようになっている。まるで宇宙からの受信機の役割のようだった。
どのくらいのその状態が続いたのだろうか。
意識が肉体へ戻って来た。腕が痛い。体を動かしてみると、一瞬腰の痛みを感じた。
急激なアセンションで、肉体・エネルギー体のバランスを崩したのかもしれない。
宇宙界。
そんな界があるんだ・・・。
気になってすぐに調べてみれば、確かに神界、ブッディ界、菩薩界、さらにその上位といっていいのか分からないが、宇宙界というのがあるようだ。
なるほど・・・
これが、宇宙連合。
ようやく魂の故郷をかいま見たような気がしていた。
自分の魂がワンダラーであり、ことあるごとに様々な惑星の助っ人をして来たであろうことは、気づいたいたが、人間界で過ごす時間も多ければ、そんなことも忘れて、アセンションによる心身のバランスをとることに意識がいきがちで、またこの世界での学びに夢中になってしまうことも度々だった。
だが、この1ヶ月ほど。心身の変化を感じていた。
アセンションにつぐアセンションで、自力感が手放せているのか、心身の疲れをあまり感じなくなって来た。
以前は、セッションが続くと、やはり違う次元や世界へ意識を飛ばすので、終わった後は少々疲れていた。ぼーっとしていたり、邪霊や低級例を恐れる気持ちもあった。
重くなった身体の浄化に時間を要することも多かった。
それがこのところ、セッション、セッション、ワークショップ、セッションと1日数回、連日続いたとしても、気分もエネルギーも落ちない。
氣が軽くなった。エネルギーが動いている。当然、周波数も上がっているのだろう。
それによって他者のエネルギーの影響を受けることが少なくなった。
少し前まで、自分の力で場をコントロールすることを手放せていないと感じることもあり、それは学びと思い、自分に向き合っていた。
「恐れ」があるから自力を手放せない。委ねられない。どうなってしまうのか怖いから。
では、わたしの内のその恐れはどこから、どのようにやって来て、わたしに巣食っているのだろうか?
それを繰り返すうち、100%とはいかないが、クライアントと大宇宙をつなぐ扉の開け閉めのタイミングを委ねることができるようになった。
セッションやワークショップの場のエネルギーと周波数が変わった。
ところで宇宙界からのメッセージがもうひとつ。
天つ神と土着の神のバランスが崩れているという。
土着の神というのは、国つ神のことをいっているのだろう。
地球においての日本は、世界の鏡をなす国。
その国が荒れれば、それは投影となって世界へ影響をおよぼす。
宇宙連合はそこに危惧したのだろうか?
なにやら果てしない話だが・・・。
しかし、わたしが預かった神使いたちへのメッセージもやはり土着の神たちの嘆きによって、自然エネルギーが弱まり、ひとへも影響をしていることが多い。
そもそもは、ひとのネガティブエネルギーが大きくなりすぎて、自然界などの異界へ影響を及ぼし、この世界の輪が乱れたところから始まった。
それによって様々な文明がこの世界から失くなっている。
自然界を司る土着の神、国つ神のエネルギーが弱まり、天界へも影響しているのだろうか。
地球にあるこの世界の不自然を自然にする。
このところのセッションの内容を振り返ってみる、終始それに尽きるように思う。
魂の段階、魂のレッスン内容によって、大宇宙の聖なるコードからのずれ具合も様々だ。
ずれが大きければ大きいほど、その魂の人間の悲しみや苦しみも大きい。
それぞれの魂に合わせたセッションの進行となるが、大きな目的は、不自然な流れを自然な流れにするためのサポートなのだ。
ひとりの人間の氣の流れが変わると、それは当然のごとく周囲へと影響をおよぼす。
そのやり方にまやかしがあってはならない。
ただ、ここがまた悩ましいところなのだが、ずれた状態のときに思い描いた「幸せ」と、魂の「幸せ」は全く違うことが多々ある。
心身魂が整っていない状態に好きになったひとや求めた仕事は、あれ? あれれ? 結局のところ究極の学びだよね? あれれれれれ? やっぱり魂のレッスンだったのね〜ということもある。
それもまた魂が選んだことなのかもしれないが。