「この世の中に存在するものに、すべて生命がある。地球も、それを包む宇宙全体もまた単なる無機物ではなくて、「いのち」そのものだという考え方・・・弘法大師が「即身成仏義」の中に述べている六大説がそれです」(「大宇宙に生きる」松長有慶著)
「いま」、
この世界へのメッセージ・・・。
前回のウログ記事で、
「自分をやめる」
「自分を脱ぐ」
と、書いた数時間後から激しい浄化が始まった。
何年ぶりだろうか? 扁桃腺が腫れての発熱。
ほぼ3日間寝続けた。
その間も夢の中、闇との対峙、統合を繰り返す。
途中、来週からの神旅に想いを馳せた。
以前、三輪山登拝前日から浄化が始まり、高次のエネルギーに包まれ寒くて寒くて仕方なかったことがあった。
今回も、すでに熱が下がっているにも関わらず続く寒さに、その時のことを思い出した。
さて、大浄化の果てに呼ばれたのは、弘法大師 空海のエネルギー。
9月の終わりか、10月の頭だったか・・・。
弘法大師がエネルギーを身近に感じるようになった。
それまで神旅といえば神社ばかりだったので、なんとも不思議な感じがした。
しかし、神社だ、お寺だと分けれる以前の日本は、神仏習合の時代が長く続いた。
八百万は神社は祀られている神々だけを指すのではなく、仏様もそれに入る。
私も3年くらい前までは関西方面のお寺を巡り、御朱印を集めていた。
だが、なぜ今、弘法大師? 空海? 密教? 真言宗?
私の実家が真言宗だから? 母の命日が近いから? 誰か死ぬのか?
思考がグルグル回転する。
時折聞こえてくる太鼓の音? 木魚? 読経などの超聴現象。
時空と次元を超えて、何かが、誰かがメッセージを送ってくる。
そんなこんなの日々。
弘法大師 空海のエネルギーをとても身近に感じるものの、はてさて? 密教? はてさて?
夜中、神々の時間帯に起こされることもしばしば続く。
段々と居ても立っても居られない気持ちになってくる。
「行かなければならない・・・」
答えが見つからないまま、高野山、密教の聖地へ行こうと思った。
弘法大師 空海なら、やっぱり高野山! 安易な決断。
が、行こうと決めたものの、高野山は遠い。簡単に行けるところなら、行っていた・・・はず。
比叡山には何度か行っているが、高野山はまだ一度も訪れていない。
人間的理由で、遠い、面倒、馴染みがない。そう思っていた。
だから今回も、行こう!と思ったものの、直前まで逡巡していた。
神仏と縁が付くのは、そこが分かれ目なのだろうな〜とも思う。
ひとは行きたい!とも思う。しかし本当に行けるかどうかは別。
行きたい!と思ってみても、そこを守る神仏に許されないと、行くことができない場合もある。
大概色々な人間的理由が先立ち神仏へ参ることは後回しになる。
これまで行こうと思った神社には一目散に行っていた私も、今回の高野山ばかりは、前日まで気持ちが行きつ戻りつしていた。
明日行こうか、体力が今ひとつだから明後日にしようか。
でも明後日になったら行ける保証がない。思考と感情と魂(内なる声)とのせめぎ合いが続いた。
最終的には、「明後日になったら行ける保証がない」という内なる声に従った。
そう。神仏とのご縁というのはそういうもの。タイミングは最善。
決まっている。決められている。果たせないのは思考と感情がごちゃついて、都合を変えてしまうから。
目指したのは、弘法大師 空海が眠るとされる奥の院。
不思議なことに、今回の高野山。そこにしか行こうとは思わなかった。
私が求めるのは、弘法大師 空海がいまだ生き、瞑想をし続けている場所。
魂が求め、弘法大師 空海のエネルギーとシンクロが起きる。
初めは宿坊に泊まって高野山を観光しようと考えていた。
遥々横浜から新幹線、電車を乗り継いで行くわけだから、たっぷり観光、堪能しようと観光ルートなども調べていた。
だが、実際高野山に到着してみると、なぜか気持ちは・・・というか、頭に浮かぶのは奥の院しかない。
そこにしか気が向かない。それ以外のところは全く興味がもてず、行きたいとも思わない。
結局のところ、奥の院へ参っただけで、宿泊地の大阪へと帰ってきた。
まんじゅう一つ食べることなく、電車とケーブルカー、バスを乗り継いで、
行き帰りの車窓から観る景色、紅葉で色づく山々を眺めて楽しむだけだった。
高野山まで行って観光せず、ほぼ墓だけ観て山を降りたわけだが、それでもこころと魂は満たされていた。
そして、弘法大師 空海の生き方、そして「密教」が私の中で大きくなっていった。
密教
高野山
弘法大師 空海のエネルギーは私をどこに導くのか?
「私をやめる」
「私を脱ぐ」
そのメッセージを受け取る前後から、自分自身のエネルギーのクリアさをどう保つかを考えていた。結局は考えても仕方ないことだと思い、大いなる宇宙=神へ委ね、導かれるままにしようと結論付いた。
エネルギーのクリアさを保つ。
街中にいると、人の中にいると、他のエネルギーの影響を受けやすい。無意識のうちに、他者、場、ものなどのエネルギーを自分に取り込んでしまっていることもある。
それでは魂のミッションに差し支える。
大いなる宇宙からの純度の高いエネルギーやメッセージを下ろすための導管。自分自身のエネルギーがクリアで、できるだけ空っぽになっていることがいい。
アセンデットマスター達のように常に高周波数を保てればいいが、肉体感情思考をもつ人間。まだまだ自分自身をマスター途中だ、
だから、私はミッション以外、自分自身を楽しませる以外で街中など、ひとが大勢集まる場所にはあまり行かなくなった。
つまらないか?というと、無い。
さみしいか?というと、それも無い。
人恋しいか?というと、それも無い。
そもそも一人っ子だし、幼い頃は一人で過ごすことが多かった。周囲に大人は大勢いたが、そこから離れて大人たちには見えないお友達と遊んでいた。
「自分をやめる」
「自分を脱ぐ」
生き残るための手段、大人になって身につけたスキル、社会生活を生きる上でのマナーや常識、価値観を徐々に徐々に手放していくと、そこに残るのは、幼い頃のまんまの私がいた。
一人で過ごすことが苦にならず、他者の評価も気にならず、読書や物書き、さらに瞑想を加えた日常が心地良い。
それが私の「あるまま」の一面。
処世術として身につけた人付き合いのスキルを手放し、「縁」そのものを大いなる宇宙=神に委ねる。
他者のエゴや不安、悲しみ、恐れなどに影響されることなく、自分だけのエネルギーになる。そして、大いなる宇宙=神へとつながり、純度の高いエネルギーとメッセージを下ろす。
目の前の一期一会の縁へと導かれる。
しかし、今でこそひとりの時間を楽しみ、落ち着いたものだが、今回の神旅以前はその生き方は私にとって正しいのだろうか?という迷いもあった。
これまでと同様、ひとの中で生き、社会の中で役に立つような生き方が正解なのではないだろうか?はたまた賢いのではないか? そう考えながらも、私の内なる声はそうではないと告げる。
それは私の魂に合った生き方ではないという声が聴こえる。
正解はひとそれぞれ、魂それぞれと分かりながらも、過去生から続く恐れが私の中にもあり、影響を及ぼす。
魂の光を信じること、信じ続けることを思考が過去のデータベースから情報を取り出し、いじくり回す。
行きつ戻りつ、迷いに迷い、迷路に入ったように魂の正解を探すこと1ヶ月くらい続いただろうか。
それが高野山への旅、弘法大師 空海のエネルギーに触れることで、少し答えが見つかったような気がした。
魂が求めるものは、これに尽きるのだろうなと思った。
「大宇宙に生きる」松長有慶著
密教を語ることは私にはできない。
知識がない。
しかし、著者が書いておられる所々の文章と魂がシンクロを起こす。
「深山の高野山に修禅、すなわち瞑想の道場を開いた。大宇宙との対話をめざすインド密教の本来の姿を、そこに再現しようとしたものである。このようにして空海は、国家と民衆のために活躍する中国密教の方向と、社会から離れ、大自然の中にみずからを融合しようとするインド密教の目指すもの、この相反する二つの路線を、一人の人格の中で統合した新しい型の密教を作りあげるべく生涯をかけた」(「密教」松長有慶著)
「大師の瑜伽への思いは尋常ではありませんでした。どんなに多忙であっても、忙しければ忙しいほど、精神的に静の生活、内面の凝視に傾倒します。われわれは他人から求められ、社会から期待されると、それにおどって、外ばかりを見つめ、精神生活をおろそかに活動し続けるのが普通だといえます。
生涯幾たびも大仕事をなしとげ、人々の幸福のために尽くす、そういった大師の大活躍の秘密は、どれほど忙しいときでも、瑜伽に入り、大自然と対話し、自己を見つめる。そういった日常生活の心がけにあったと思われます」(「大宇宙に生きる」松長有慶著)
※瑜伽 感覚器官が自らに結びつくことによって心を制御する精神集中法や、自己を絶対者に結びつけることによって瞑想的合一をはかる修行法をいう。
「この世の中に存在するものに、すべて生命がある。地球も、それを包む宇宙全体もまた単なる無機物ではなくて、「いのち」そのものだという考え方・・・弘法大師が「即身成仏義」の中に述べている六大説がそれです」(「大宇宙に生きる」松長有慶著)
魂にはそれぞれ役割がある。段階がある。
この世界ど真ん中を生きる魂もあれば、この世界から外れて生きることを目的とした魂もある。
それは比較できるものではない。
正解は自分しか分からない。
「過去を顧みれば冥冥とし、その首を見ず。
未来に臨めば、漠漠としてその尾を尋ねず。」
「生まれ生まれ生まれ生まれて、生の始めに暗く。
死に死に死に死んで、死の終わりに冥し。」(秘蔵宝鑰より)
「過去も未来も、生の始めも死の終わりも、すべて人間の思考の領域を超えたところにありますから、それについてなんだかんだと議論を重ねても結論が出るわけではありません。」(「大宇宙に生きる」松長有慶著)
俗と非俗、現界と霊界。この次元と異次元を行き来しながら、今生における「わたし」をマスターすることが魂の目的。
そしてその魂の目的は、天と地をつなぐこと。
この世界が抱える「恐れ」と向き合うこと。
何より、わたしがこの世界に「ある」ことを祝福する!
そして、様々なマスター達からエネルギー的な教えを乞いながら、日々これ精進、日々これ好日!
※奥の院は撮影禁止のため、写真がありません。