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東国三社・息栖神社を訪れ、ふと目についた案内。
水郷筑波国定公園特別地域
水郷筑波国定公園の一部である、息栖神社と鹿島神宮、千葉県の香取神宮の3つの神社は、
併せて「東国三社」と呼ばれています。
東国三社は、二等辺三角形でつながる。
そして、地図をよく見ると、その三角形の真ん中に、沼のようなものがある。
三社はまるで、それを囲うようにある。守護しているようにも、抑えつけているようにも見てとれる。
そこに氣が向く、
・・・行ってみよう。
息栖神社から約10kmほどの距離。
そこは、「外浪逆浦」という。
外浪逆浦
茨城県南東部,神栖(かみす)市と潮来(いたこ)市の間に位置し,常陸利根川の一部をなす水域。北浦とは鰐(わに)川,霞ヶ浦とは北利根川で通じる。面積7.3km2,最大深度7m。古くは流海(ながれうみ)などとよばれ,内陸部への海浸部を構成した。満潮時に海水が河水を押さえ,波浪が逆流したのが浪逆の名の由来といわれ,《万葉集》巻十四に〈常陸なる浪逆の海の玉藻こそ引けば絶えすれあどか絶えせむ〉の歌がある。
(コトバンクより)
外浦逆浦。この日は、とても穏やかな水面であった。
そして、太陽の光を受け、キラキラ輝いていた。
浦の真ん中あたりにいるカモたちの鳴き声が騒々しく聞こえるが、それもまた楽しげだ。
平和なある日の風景。
ここに氣が向くのは、なんだろう?
すると、普門院という寺院の御本尊船越地蔵に行き着く。
高層忍性菩薩が鹿島神の神託がくだった。
「鹿島社の神木の南枝をもって六道能下地蔵を刻み、普門院普渡寺に安置すれば、渡海安全・五穀豊穣・国家安泰となるだろう」
そこで、忍性菩薩は地蔵尊三体を彫り、鹿島神のお告げにより、普門院・普渡寺・菩薩寺にそれぞれ安置された。
この地蔵が普門院船越地蔵として尊ばれたのは、この入り海の普門院前の水路は、潮の流れが速く常に渦を巻く荒川であり、太平洋の海が逆流するため、いつしか鰐が住んで渡し船を覆し、人々を取り喰う被害が絶えなかった。
そこで近村の人々は、鹿島社に詣でお祈りをした。次の日、一人の層が川辺に佇み、水上に向かい読経を始めた。
すると水面にわかに逆巻が立ち、風を起こし、約3mの鰐の群れが出現し、回りながら太平洋へ流れ去ったという。
その後、この僧は普門院の地蔵堂へ忽然とその姿が消えた。
(潮来市広報「いたこ」2010年5月号より)
さて、息栖神社の祭神・久那土神は、猿田彦大神や地蔵菩薩などともいわれる。
そして、鹿島神・武甕雷神は、軍神・雷神・地震の神・剣の神。
エネルギーのシンクロニシティ。
そういえば、数日前関東近郊は大雪に見舞われた。
雪の夜の雷を経験したひとも多かっただろうか。
美しくもあり、妖しくもあり。
誰が言ったか、時おり聞こえてくるのは、
「昔は、海だった」
ここに来て、久しぶりにそれを思い出した。
hikari🌟 ①
hikari🌟 ②
ところで、三角。
天と地がつながるとき、その型は大きな意味をもつ。
東国三社
関東地方にある鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の総称。
三社はいずれも関東地方東部の利根川下流域に鎮座する神社である。
古代、この付近には「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっていた。
これら三社の鎮座位置はその入り口にあたり、うち鹿島社・香取社は大和朝廷の東国開拓の拠点として機能したと推測される(息栖社も拠点とする見方はあるが不詳)。
また、三社はいずれも『古事記』『日本書紀』における葦原中国平定に関する神(右表参照)を祀っている。
うち息栖社主祭神・岐神は、記紀に記載はないが東国に導いたと伝えられる神であり、同社では天鳥船神を配祀する。
江戸時代には「下三宮参り」と称して、関東以北の人々が伊勢神宮参拝後にこれら三社を巡拝する慣習が存在したという。
(Wikipediaより)
香取海(かとりのうみ)
古代の関東平野東部に太平洋から湾入した内海で、香取神宮の目前に広がり、さらに西の内陸方向へ延びていていたものを指す。その細長い湾入部は「榎浦」と呼ばれた。古文書には内海(うちうみ)、流海(ながれうみ)、浪逆海(なさかのうみ)などの名でも現れる。
縄文時代、海面後退期に鬼怒川によって形成された侵食低地の河谷に縄文海進により海水が流入して内海が作られ、学術的には古鬼怒湾と呼ばれる。霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼までつながり、鹿島灘にはっきりと湾口を開いていた。
(Wikipediaより)
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