訪れたのは、鹿島神宮 元宮の説がある、大生神社。
元鹿島ともいわれるとか。
大生神社
祭神 健御雷之男神
社伝では、飯富族(オフ:多氏)の大和から常陸への移住の際、氏神として祀られたといわれる。
境内周辺には大生古墳群も残っており、オフ一族の奥津城(墓)とされている。
(Wikipediaより)
大生神社は、あやめ祭で有名な茨城県潮来市にある。
水郷 潮来といわれ、水の街でもある。
水郷 潮来観光協会
それでは、大生神社へ。
朝早い時間だった。
大生神社に関わりのある方だろうか。その方を除いては、他に参拝客もなく。
まるで森に隠されているかのように、ひっそりとした境内。
鳥居
参道
手水舎
拝殿
拝殿と本殿(後方)
大生神社本殿 (茨城県指定有形文化財)
大生神社は健御雷之男神を祭神とする元郷社で、その創祀年代は詳らかではないが、
鹿島の本宮と云われ古く大和国の飯富族の常陸移住の際氏神として奉還し、御祀したのに始まると
いわれている。
この本殿は天正十八年(一五九〇年)の建立と伝えられる三間社流れ造り茅葺で間口約六m、
奥行約七m、前軒高さ約三.三m、裏軒高さ約四mと地方社殿としては大きく荘厳にして、
当地方における最古社でその時代の特徴を良く示しており、貴重な存在である。
また、毎年十一月十五日の例大祭で奉納される巫女舞神事は昭和三十八年八月二十三日に、社を
取り囲む樹叢は昭和三十九年七月三十一日それぞれ県指定文化財となり、拝殿は町指定文化財である。
昭和五十六年三月 潮来教育委員会
県指定無形文化財 大生神社巫女舞神事
この巫女舞は、11月15日の例大祭当日祭儀が古式により種々行われた後に奉納される。
当日奉仕する巫女は、大生地区氏子中の7歳から13歳までの少女の中から11月1日夜半
氏子総代によって神前にてくじで決定すると同時に夜12時を待って同家に気付かれぬよう
に七五三(しめ)縄を張る。舞は先輩によって14日の前夜祭まで伝習される。巫女は浄衣緋袴垂髪
とし、右手に弊、左手に鈴をもち舞う。
奏楽は御神楽太鼓1・笛2・太鼓1・小鼓1・大太鼓1・小太鼓1の7人囃子である。
巫女は神前に進み正面に向かって座し、神楽太鼓に合わせて立ち上り、弊と鈴を大きく上下しながら
数歩後退したところで前進し、元の位置に戻り、再び同様の所作を行いながら神前を一周して一座の終わりとなる。
五座ないし七座舞って終わりとなる。舞は簡単であるが、古い様式をそのままに遺す神事として貴重な存在である。
平成4年3月 潮来町教育委員会
静まりかえった境内。
天然記念物 大生神社樹叢
朽ちてはいるものの、迫力のある樹。
後方から本殿を見る。
境内から出てすぐのところにあった樹。
根元になにか、お祀りされている。
大生神社七ツ井戸ご案内
鹿島神社の宮司や氏子は、元宮の大生神社で秋の大例祭に向け巡航しました。
順路は鹿島市の神野の井戸で一行は体を清め出発。さらに沼尾の湖岸で木舟に乗り、
潮来市の釜谷に着くと甕森神社前から鹿島往復道路を通り、大生神社の第一の鳥居から、
御手洗で清めると第二の鳥居をくぐり大生神社本殿に到着しました。
鹿島神社とは、現在の鹿島神宮のことのよう。
御手洗、涸れている?
松和稲荷
稲荷社
稲荷社の反対側には小さな祠が数個並んでいた。
樹を祀っているのかな。
大生神社を背にして、きた道を振り返る。
まっすぐ伸びた参道。
神社を離れ、
礎たちが眠る場所。大生古墳群へ。
大生古墳群
前方後円墳・方墳・円墳など110余基の古墳からなり、築造時期は古墳時代中期(5世紀)と見られている。
古墳群は、大生神社を中心として大生東部古墳群、大生西部古墳群、カメ森古墳群、田ノ森古墳群に大別される。
このうち大生神社西側に位置する大生西部古墳群は代表的なもので、鹿見塚古墳(県指定史跡)をはじめとして、子子舞塚古墳(まごまいづか)、天神塚古墳、白旗八幡古墳など20数基からなっている。
これら古墳群の被葬者は、鹿島神宮と密接な関係のあったオフ氏(多氏・飯富氏)一族と見られている。また古墳群の中央に位置する大生神社は、この一族の奉斎する社とされる。各前方後円墳がいずれも大生神社または鹿島神宮を向いているという指摘もあり、大生神社社伝も含め鹿島神宮とオフ氏の関係については議論がなされている。
(Wikipediaより)
訪れたのは、神社西側に位置する古墳群。
ここは、県立水濠県民の森という公園のようなところの一角にあるようだ。
こんもりとした形。
すぐに古墳と分かる。
鹿見塚古墳
子子前塚古墳
案内が見てとれたのは、鹿見塚古墳と子子前塚古墳。
その他、ここには天神塚古墳、白旗八幡古墳など20数基の古墳があるようだ。
被葬者は、鹿島神宮、大生神社と密接な関係にあったオフ一族(多氏・飯富氏)らしい。
こちらの古墳は自然の一部となっている印象だが、
一方、立ち入り禁止の看板がある道の先、奥まったところから、強いエネルギーの流れを感じた。
この先にあるかもしれない古墳は、なにか特別な役割があるのかもしれないな。
途中で目に止まった果樹のようだが、、。
さて、大生神社。
巫女舞神事の内容を書いていたせいか、「物忌」の言葉がやってくる。
物忌
ある期間中、ある種の日常的な行為をひかえ穢れを避けること。斎戒に同じ。
具体的には、肉食や匂いの強い野菜の摂取を避け、他の者と火を共有しないなどの禁止事項がある。日常的な行為をひかえることには、自らの穢れを抑える面と、来訪神 (まれびと)などの神聖な存在に穢れを移さないためという面がある。
(Wikipediaより)
鹿島信仰
鹿島大神(おおかみ)および鹿島神社に対しての信仰。常陸(ひたち)(茨城県)の鹿島神宮を中心として、福島県、宮城県の海岸地帯など全国的に広がっている。
後世、鹿島信仰が普及した事由の一つは、これを民間に広めた神人(じにん)集団がいたからである。彼らは、鹿島神宮にいた「物忌(ものいみ)」とよばれる巫女(ふじょ)の託宣を民間に伝えて歩いた。これが「鹿島の事触(ことぶ)れ」の始まりである。(コトバンクより)
鹿島大神
茨城県鹿島町の鹿島神宮の祭神。『常陸国風土記』では,香島天之大神。天地の開けるより前の太古に,諸祖天神に命じられ,高天原より天降ったという。9世紀頃から,建御雷神と同一視され,特に東北地方の鎮護に神威を発揮する,武神として崇められた。旅立つことを古来,「鹿島立ち」というなど,行路の守護神ともされている。神官の未婚の娘から選ばれる,物忌と呼ばれる女官が,終身の神妻となって仕え,正月7日にその年の豊凶を託宣し,それを鹿島の言触れと呼ばれる神人たちが,各地に告げてまわった。境内にある要石は,地中にいて地震を起こす大鯰の頭を押さえていると,いい伝えられている。
(コトバンクより)
そういえば、古代、福島県南部には、女王を擁する国が複数あったという説がある。
すると、上に出てきたような「物忌」とよばれる巫女たちが狭い範囲ではあるが、常陸国に広がっていった結果かもしれないと想像してみた。
大地と一体となったこの国の礎たちに耳を傾けてみれば、教えてくれるだろうか。
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