栃木県足利紀行。
大岩毘沙門天から足利織姫神社へ。
そして、織姫神社から近い、こちらも紅葉で有名な鑁阿寺を訪れた。
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金剛山仁王院法華坊 鑁阿寺
住所: 栃木県足利市家富町2220
本尊 大日如来
鑁阿寺は、鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。
山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来(だいにちにょらい)を祀る。
約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されている。またこの事から「史跡足利氏宅跡」として、大正10年3月に、国の史跡に指定されており、現在では「日本の名城百選」にもなっている。
(鑁阿寺HPより)
紅葉が目的で来てみたが、ここ鑁阿寺は、足利義兼居館に建立した持仏堂が後に整備されたものらしい。
足利氏といえば、鎌倉幕府に継ぐ室町幕府の将軍家。
初代征夷大将軍 足利尊氏は、義兼の六代後の子孫のようだ。
また、足利義兼の正室は北条時政の娘・時子というから、北条政子・北条義時らとは兄弟姉妹。
それでは、鑁阿寺へ参りましょう!
楼門(山門)
桃山時代の作とされる両側に仁王像が配する楼門は、足利幕府13代将軍足利義輝の創建。
楼門を抜け、境内へ。
本堂
地元の人だろうか、次々と参拝に訪れていた。
紅葉も最盛期というのもあるが、この日境内ではイベントがあるようで、特設ステージが出店などがみられ、
とても賑やかだった。
静かな神仏との対話もいいが、陽氣に包まれた空間は、人と八百万が出会う場所であり、遊び場。
本堂は鎌倉時代、建久7年(1197年)に足利義兼が持仏堂として建立したものを、その後足利義氏が方5間の大堂を建立したが、1129年の火災で失い、尊氏(たかうじ)の父・足利貞氏(さだうじ)により正安元年(1299)に再建したもの。
鎌倉時代に当時中国の最新の寺院建築様式の一つであった禅宗様(ぜんしゅうよう)をいち早く取り入れたもの。
密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重な文化財である。
平成25年(2013年)に国宝指定。
(鑁阿寺HPより)
ご朱印をいただこうと本堂にある窓口に近づくと、おびんずるさん!(写真無し)
これより前に訪れた大岩山毘沙門天で、強い氣で氣をひいてくる。
このあたりは、おびんずる信仰が盛んなのかな?
おびんずるさま
賓頭盧。釈迦の弟子のひとり。
獅子吼(ししく)第一と称される。名がピンドーラ、姓をバーラドヴァージャである。名前の意味は、不動、利根という。十六羅漢の第一。
バーラドヴァージャはバラモン十八姓の中の一つである。
博識であり慈悲深く十善を尊重し、阿羅漢果を得て神通力を得た。白髪長眉の相があったといわれる。
彼の説法が他の異論反論を許さずライオンのようであったため獅子吼第一といわれるようになった。優填王が仏教に帰依したのは、夫人の勧めという説もあるが、賓頭盧尊者の説法によるとも伝えられる
(Wikipediaより)
鑁阿寺境内で最初に氣が向いたのは、大銀杏!
写真では大きさが伝わりにくくて残念だが、とても大きい。ダイナミック!
黄色に色づいて葉。今が見頃。
大銀杏
樹齢650年。
大銀杏の後方にあるのは、
多宝塔
足利義兼の創建と伝えられるが、江戸時代の元禄5年(1692年)徳川五代将軍の母、桂昌院尼公の再建したもの。
金剛界大日如来と勢至菩薩をお祀りしている。
勢至菩薩は俗に二十三夜尊といい午年の守り本尊で、毎月二十三日の午後から夕方にかけて、お堂を開けている。
参拝者には「お種銭」を差し上げている。種銭を持っていると、お小遣いに不自由しないという言い伝えがある。
(鑁阿寺HPより)
そして、多宝塔前にある紅葉も見事に赤く色づいている。
写真は、ここからしばし、
紅葉の宴!
さて、紅葉をたんと楽しみ、
本堂の後方へと向かう。
ここにもいくつかの社がひっそりと鎮まっていた。
それぞれに依り代になるべく樹があり、
色づく葉っぱが綺麗だった。
大酉堂
そもそもは足利尊氏を祀るために創建されたらしいが、時代の風潮により、
その後、大酉大権現が本尊になったらしい。
大黒堂
校倉 大黒天が祀られている。
蛭子堂
鑁阿寺を開いた足利義兼の妻、時子をお祀りしていて、その法名から智願寺殿(ちがんじでん)または蛭子堂(ひるこどう)とよばれます。
(足利市HPより)
深まりゆく秋を堪能しながら、
ここでもまたたっぷりと紅葉を楽しんだ。
日本の秋は美しい!