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山本不動尊の次に訪れたのは、同じ棚倉町にある八槻都々古別神社。
奥州一宮 八槻都々古別神社
住所:福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224
ご祭神:味耜高彦根命・日本武尊
都々古別三社の一社で、江戸時代頃には「近津三社」(馬場都都古別神社・八槻都々古別神社・下宮近津神社)と総称された“中宮”にあたります。
縁起によれば、日本武尊(ヤマトタケル)が八溝山の「東夷」の大将を討った際、守護として示現した三神が建鉾山より箭(や)を放ち、箭の着いた場所を箭津幾(やつき)とし都々古別神社を創建したのがはじまりといわれています。(棚倉町観光協会より)
主な同名神社として2社があり、いずれも陸奥国白河郡の式内社(名神大社)論社で、陸奥国一宮。
都都古和氣神社(馬場都々古別神社)
都々古別神社(八槻都々古別神社)
これらの社は、馬場社を上宮(上社)、八槻社を中宮(中社)、そして近津神社(茨城県久慈郡大子町下野宮)を下宮(下社)として「近津三社」をなしたといわれる。
社記(慶長2年(1597年)の陸奥国一宮近津大明神縁起)によると、第12代景行天皇の時に皇子の日本武尊が奥羽に至り八溝山の東夷を討った際、日本武尊を守護した3神が建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れたので、尊は東方に箭を放ち箭の着いた地(箭津幾:やつき)に神社を創建したという。そして源義家が奥州征伐に訪れた際に「千勝(近津)大明神」と改称したと伝える。
地名の「八槻」の語源伝承は『陸奥国風土記』逸文(大善院旧記所引)にも見え、日本武尊が東夷征伐の際に放った八目鳴鏑(鏑矢)が落ちた地が「矢着」と称されたが神亀3年(726年)に「八槻」に改めたとし、別伝として日本武尊が放ち8人の土蜘蛛(在地首長)を貫いた8本の矢がいずれも槻の木になったので「八槻」になったともいう。これらは、陸奥勢力のヤマト勢力への服属を日本武尊の東征に仮託して説明したものとされる。
(Wikipediaより)
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都々古別神社の御田植
旧暦1月6日、八槻都々古別神社において御田植祭が行われます。
御田植祭とは豊作を祈って神楽を奉納するお祭りです。
一連の稲作風景がユーモラスな舞と掛け合いにより演じられます。
(能狂言風な所作による田遊びで、国の重要無形民俗文化財に指定されています。)
(棚倉町観光協会より)
毎年旧暦の1月6日に豊作を祈って、神楽などとあわせてせりふと簡単な所作で稲作の作業過程を演じる民俗芸能である。
農の神である都々古別神社の拝殿で行われる最も古典的な豊年予祝の芸能である。杜家の神官が、楽人、舞人となり、せりふと簡単な所作で、堰の様子を確認する「せき検分」が演じられる。さらに拝殿を水田にみたてて「代かき」「畦ぬり」などの田植の諸準備が演じられ「田植」、そして「天狐の舞」が舞われ、最後に昼食として参列者に餅をまく。
年の始めなどに、あらかじめ稲作過程を模擬的に演じて、豊作を祈願する芸能は、田遊びや御田などとも呼ばれ、各地に伝承されている。
この御田植は、神楽などとともに、せりふや所作で時に滑稽に稲作の作業過程を演じるもので、狂言をうかがわせる演じ方など、芸能の変遷過程や地域的特色を示している。
(Wikipediaより)
御田植。
人と八百万の遊び場。
それでは、八槻都々古別神社へ!
鳥居
ご由緒
参道
狛犬
鳥居を抜け、参道へ入った途端、驚いた。
氣が変わった。・・・分かりやすい。
冷たい空気。・・・霊氣だろうか。
寒いくらいの氣の流れ。
参道途中にあった対になったご神木。
長寿・縁結び之神
手水舎
樹の間から陽が射す。
強い!
随神門
随神門をくぐり抜け、
拝殿
さらに霊氣・冷気が強まったように感じる。
左:拝殿 右:本殿
拝殿のすぐ近くには、これからご神木となる若い樹が育っていた。
本殿の右側には、鬱蒼とした森が広がる。
その森の奥まったところにあった3つのお社。
左:皇朝工祖神社 中:熊野神社 右:北野神社
皇朝工祖神社にお祀りされているのは、聖徳太子らしい。
森の中には、池。
陰の氣の強い池。
柔らかく陽が射しこむ。
氣が向いたので、光の儀式をしてみると、
うっすらとレイラインが現れた。
八槻都々古別神社。
参道から本殿へ向かう一直線は、寒いくらいに霊氣が強かった。
しかし、聖徳太子や熊野権現が祀られている森は、陰の氣が強い。
霊氣と陰氣。氣の違い。
人間的でもあり、霊的でもある。
なんとも面白い、氣✖️氣。
そういえば先述の、「地名の「八槻」の語源伝承」についてだが、
「日本武尊が放ち8人の土蜘蛛(在地首長)を貫いた8本の矢がいずれも槻の木になったので「八槻」になったともいう。」
土蜘蛛。土着の豪族のことで、大和政権に従わなかった。
そのため、日本武尊が征伐に派遣され、尊が放った8本の矢が次々と土蜘蛛らを射抜いた。
8本の矢から槻(ケヤキの古称)が初芽し、八槻庄になったという。
上の内容が本当のことなら、ここは古戦場。
勝利の雄叫びと悲しみの涙のシンクロニシティを地の氣は内包する。
鎮めのためのお社。
ところで、ここにもうひとつ興味深かったのは、御田植。
棚倉町内をあっちこっちと見て回り、感覚が捉えらたのは、田んぼの威力だった。
田んぼが多い。田んぼの向こう側に山々の稜線がなだらかに続いている。
田の力が強い! 口をついて出た言葉。
八槻都々古別神社の御田植祭りを知って、納得した。
古式ゆかしいお祭りが守られていることで、田の八百万のエネルギーは大きくなり、五穀豊穣が聞き届けられる。
すると、八槻都々古別神社は2つの役割をもつ。
鎮めと結び。
しかし、それには人の関わりも大きく影響する。