群馬県にある赤城山に氣が向いた。
赤城山、赤城山、赤城山・・・
気になる、気になる、気になる〜
赤城山(前橋まるごとガイド)
関東地方の北部、群馬県のほぼ中央に位置する山。太平洋プレートがオホーツクプレートに沈み込んでできた島弧型火山である。
また、赤城山は、カルデラ湖を伴うカルデラを持つ関東地方で有数の複成火山である。
榛名山、妙義山と並び、上毛三山の一つに数えられている。また、日本百名山、日本百景の一つにも選ばれている。
中央のカルデラの周囲を、円頂を持つ1200mから1800mの峰々が取り囲み、その外側は標高にして約800mまでは広く緩やかな裾野の高原台地をなしている。これは富士山に続き日本で二番目の長さである。
中央部のカルデラ内には、カルデラ湖の大沼(おおぬま、おの)や覚満淵(かくまんぶち)、火口湖の小沼(こぬま、この)がある。
大沼の東岸、最高峰 黒檜山(くろびさん)の山麓に当たる場所に赤城神社があり、山麓各地に里宮があるほか、関東一円に末社約300社が分布している。
(Wikipediaより)
2022年10月。
季節は巡り、そろそろ紅葉の季節。
赤城山に、赤城大明神あり!
そんなわけで、赤城山にある赤城神社へgo!
赤城神社
ご祭神
赤城大明神
大國主神・磐筒男神・磐筒女神・経津主神
その他、ご祭神は、こちら(赤城神社HPより)から。
ご由緒は、こちら(赤城神社HPより)から。
赤城山を神体山として祀る神社である。山頂にあるカルデラ湖の大沼・小沼や、火口丘の地蔵岳、そして赤城山そのものに対する山岳信仰に由来する。
信仰の成立や各社の創建は、いずれも明らかではない。山名自体も『万葉集』には「久路保の嶺ろ」と記されており、8世紀頃までは「くろほのねろ」と称されていた。赤城南麓を流れる粕川の水源としての信仰(水源地・小沼への信仰)と、最高峰の黒檜山などへの雷神信仰、および赤城山そのものへの山岳信仰が集まって成立したとみられている。
(Wikipediaより)
赤城神社の目の前には、大沼がある。
大沼
群馬県の赤城山の山頂カルデラにある火口原湖で、赤城山のカルデラ湖としては最大のもの。
湖水は北西の火口瀬から沼尾川として流出、赤城山の西麓を流れ下って直接利根川に注ぐ。半島部の小鳥ヶ島には赤城神社が鎮座する。
いまの赤城山の山頂カルデラの生成が始まったのは約4万5000年前と推定されている。
このときは山頂で起きた噴火によって膨大な量の噴出物を関東一円に堆積させ、軽石は栃木県鹿沼市付近で鹿沼土となり、火山灰は関東ローム層を形成した。この噴火によって山頂部は陥没してカルデラとなり、現在の外輪山とカルデラの原型ができた。
ここにできたカルデラ湖は現在の大沼の7倍ほどの大きさがあり、現存する湖の母体となった。
約3万2000年前ごろから、この山頂カルデラ内で新たな火山活動が始まった。
これにより地蔵岳、見晴山、長七郎山などの中央火口丘が出現し、山頂カルデラにあった湖が分断され、大小2つの湖となった。
(Wikipediaより)
赤城山の神と日光(栃木県)の神(二荒山)が、赤城大沼や中禅寺湖をめぐって争ったとする伝承がある。この伝承にはさまざまな亜種があり、北関東地方の各地にこれにまつわる伝承の地がある。
両神はかねてから仲が悪く、武力をもって衝突したり、ムカデや大蛇に化身して戦ったりした。
戦場ヶ原がその戦地であるといった伝承や、坂上田村麻呂や鹿島神、猿丸が加勢したというエピソードもあるが、大筋では赤城山の神が敗れる物が多い。
これらの伝承は古代における上毛野国造と下毛野国造との領地争いや利水権をめぐる争いを反映したものであるとみなす者もある。
『神道集』(室町時代に成立)には、赤城大沼と榛名湖をめぐる伝承が採譜されている。
(Wikipediaより)
赤城山の歴史を見ると、この御山が関東平野を産みだしたひとりであるといっても過言ではない。
北関東のローム層は、浅間山・榛名山・赤城山などの噴き出された火山灰から構成され、
南関東のローム層は、富士山・箱根山系の火山から噴き出された火山灰から成り立っている。
パワフルという言葉だけでは表現し尽くされないほど、大きなエネルギーをもつ御山たち。
ご存じのように、浅間山・榛名山・赤城山は、活火山と位置付けられており、何かの拍子に活動再開するかもしれない。
なお、赤城山の最新の噴火は、2万4000年前ごろに起こったというから、富士山どころではないエネルギーが蓄えられているのではないだろうか。
パワーのある御山を訪れるということは、人間にも様々な恩恵がもたらされる。
いわゆるグラウディング。地に足を着け、エネルギー体が刺激され、肉体の浄化やパワーチャージ!
しかし、反面、パワフルママさんが怒り狂うと、怖い。だから、そっとそっとしておきましょう。
赤城山へ到着したのは、午前中の早い時間。
登山客をちらほら見るものの、静かな朝だった。
ひんやりした空気と湖面を渡る風。とても清々しい。
赤城大明神は、大沼に座す。
静かな、本当に静かな、それでいて力強いパワーを発する。
それは秋波となり、伝わってくる。
まるで湖に誘われるように、周辺をウロウロする。
さて、ウロウロも終わり、
ようやくお社に氣が向いた。
参りましょう!
ご由緒
境内
本殿
小鳥が島出土鏡について
この多宝塔は以前は経塚と呼ばれ、小鳥が島のほぼ中央にあった。
昭和44年(1969年)に社殿再建に当たって現在地に移したもので、応安5年(1372年)の銘がある。
多宝塔は、法華経供養のために建てられたといわれているが、この地へ移転する際、多宝塔の下から和鏡10面と経筒の残片5片が出土した。
鏡の製作年代は平安後期から室町時代に及ぶ。(前橋市教育委員会)
多宝塔
湖を背に、赤城神社本殿左側の林の中にある。
ところで赤城山についてだが、
赤城山は一つの大きな火山体の名称であり、同名の峰は存在していないという。
8つの峰から構成されているようだ。
大沼と赤城神社を真ん中に、四方に山々が見える。
赤城山の強いパワーを吸収し、味わい、パワーアップ!
ところで、赤城山は女性の願いが叶うという神社といわれ、多くの女性参拝客が訪れるという。
それはなぜかといえば、赤城大明神の伝説へとつながっていく。
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赤城山三姫物語
その昔、履中天皇(5世紀前半に実在したと見られる)の御代、高野辺大将家成という公家がおりました。
ある時、無実の罪で、上野國勢多郡深栖(フカヅ…現前橋市粕川町深津ともいわれる)という山里に流されてしまいますが、そこで、年月を過ごすうちに、若君一人、姫君三人に恵まれました。月日は経ち、成人した息子は、母方の祖父を頼って、遠く離れた都へ上り仕官しておりました。
三人の姫たちは深栖で両親と共に暮らしていたのですが、母君が38歳の春、姫たち(淵名姫・赤城姫・伊香保姫)がそれぞれ十一歳、九歳、七歳の時に亡くなってしまい、父家成は、その年の秋に世間の習慣に従い後妻を迎えます。
罪を許された大将は、上野国司に任命され任地へ向い、三人の娘たちは、それぞれの乳母の元で成長します。継母は、美しく成長した三人の娘を疎ましく思うようになり、弟の更科次郎兼光をそそのかして殺害を計画するのです。
〜
次女の赤城姫も追われ、赤城山に逃げ込み迷っていたところ、赤城の沼の龍神が現れ「この世は、命はかなく夢・幻のようであります。竜宮城という、長生きの素晴らしい処へと姫君を案内します。」と言って姫を助けてくれました。姫はその後、龍神を継いで、赤城大明神となります。
(前橋まるごとガイドより)
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