誰かがいるから、私は、「なにか」になった。
誰かがいないなら、私は、「私」だった。
それが、
誰かがいても、私は、「私」になって、
やがて、
誰かがいても、私は、「わたし」であるのだ。
人意識から魂意識へ
そして、グループ意識へ
太陽が春分点を超えたあたりからだろうか。
自分が、また、なにか、変わったようだ。
少し前と意識が少し違う。
それ以前から兆候は少しずつあった。次の扉が見え隠れしていたからだ。
道を進むこと分かっているが、若干の躊躇がある。
この躊躇はなんだ?
正体が見えぬまま、プールの中の渦巻く水に身を浸したような状態で、時は過ぎる。
躓こうが転ぼうが、自分が傷つこうが傷つかまいが、時にジタバタ、時にじっくり、地道に、ガンガン扉を開けてきた。
それが魂の設定であり、この生で構築した性格ともリンクする。
そして、目標が分かっているような分かっていないような時でも、止まらなかった。
それはできるところから解答し、分からないところは後回しといった受験スタイルと同じように、人生のあるところまでは前世の復習で、取りこぼし箇所の再取得しているにも思えた。
だから、馴染みがあって、うっすら結果が分かっていた。
大宇宙のパターン。
地球に転生したことの目的のひとつは、まさにこれ!
トレーニングと試験。
大宇宙のパターンを小宇宙に見いだす。
しかし、この春先から魂が、これまで分け入ったことの無い暗い森、はたまた誰もいない砂漠に分け入ったような感覚があった。
かといって、古い魂は便利なところもあって、魂迷中でも、これまでの経験を応用しながらやり過ごせる。
誰かの前では、「なにか」になって、
ひとりの時は、魂のか細い光を頼りに暗闇を彷徨っていた。
暗闇という方がカッコいいが、どんより曇り空。太陽は厚い雲に覆われて、どっちつかずの空模様。
余計にイライラする。
答えは分かっていたはずだが、大宇宙はそれは正解では無いといっているようで、ヒヤヒヤと不安になった。
その先に一筋の道があることは知っている。いずれ、一本の道が見えてくることも知っている。
でも、見えてこない。
無理やり正解を探す必要はないし、無駄なことも知っている。
近道したつもりがドツボにハマり、いい加減が見つけられなければ、後からやり直しか補習は目に見えている。
大宇宙はその魂の進化の度合いでしか、秘密は開示されない。
それは、黒の道をいく魂に秘するためでもある。
ゆえに、大宇宙の高レベルな情報にアクセスするには、人は、純粋なエネルギー体となり、無私無欲な状態を求められる。
それを成すため、魂は転生を繰り返し、人生を通してエネルギー体を浄める。
気づいた。
少し前からだろうか、導き手が鳴りを潜めている。
消えたわけでも、居なくなったわけでもない。
相変わらずメッセージは響いている。
だが、それまであった存在感が感じられない。
一瞬の恐怖が襲う。
産まれてこの方、守られていた。
わたしの霊性が閉じていた時でも、感じられていた。
なんだろう、この感覚。
この人生には無かったような感じだ。
どんな時もあったものが、無い!
瞑想
瞑想
感じる
感じる
みる
みる
聴く
聴く
・・・・・
そして、理解した。
これは、魂と一体化していく過程だ。
魂=スピリット・ガイドはわたしの外にいた。
導き手の存在が別個のエネルギーとして感じられていた。
大概は人的意識にあって、ある場面、特定の場面にあって魂意識が優位に立つ。
意識が上にいったり、下にいったり。
当然、波動の乱れは生じるし、心身が不安定になることもある。
しかし、今、わたしがいるのは、真っ白な部屋。
そこには、3人のわたしがいる。
一方の扉は開き、
もう一方は閉じていた。
過渡期には、わたしの身体を通して難しい感覚を伝えてくる。
胃のあたりになんとなくスッキリしないものを抱え、関西神旅&ライトワークへ出発した。
初日は、特に予定を立てていなかった。足の向くまま氣の向くままとホテルに近い周辺を巡った。
大きな観光地ではない神社仏閣ばかりに参っていたのは、魂意識が成すことだ。
人的意識は戸惑う。
だが、六角堂の本堂で参っていた時、それは聴こえた。
「祈りの魂」
「慈悲」
そうだった。魂迷中。
「祈り」が分からなくなっていた。
祈りとはなんなのだろう?
言葉を調べれば、意味は出てくる。頭で理解することは容易い。
だが、魂は納得していないようで、感情と感覚を通してそれを伝えてくる。
言葉と感覚と想いがチグハグするような。
魂と感情と思考がバラバラのような。
祈り
祈る それは、外の対象にエネルギーを向けること。
いや、違う。これはそうではない。
では、外の対象を内にいれる。同化する。内なる神とよくいうが。
いや、違う。これもそうではない。
分からない!
「祈りの魂」
もう一度、頭の中で反芻する。
ハッとした。
言葉と感覚が一致した瞬間が訪れた。
祈り = わたし
それを細かく説明することはできない。
魂がそうであるから。としか言いようが無いのだが。
わたしは、祈りだった。
さらに、祈誓。
おもむろに、そのような言葉が放たれた。
祈りを手放し、
祈りになる。
これまでは、人としての祈り。
これからは、祈りそのものに。
そこには、慈悲がある。
次のトレーニングはそれだと言わんばかりのメッセージを、次の日の朝方、起きがけに響きわたる。
・・・・・・
折しも、その日は鞍馬山でのウエサク祭の日。
人類の平和と目醒めを祈る。
天地が大きくつながる朝だった。